サミット(先進国首脳会議)や欧州サミットの創始者として知られるヴァレリー・ジスカールデスタン(Valery Giscard d’Estaing)元フランス大統領がコロナウイルス感染症で2日に死去した。94歳だった。
私にとっては、ENA(フランス国立行政学院)の先輩であり、また、留学した当時の大統領だから、感慨は深い。ジャック・シラク、ミッテラン両大統領、ロカール元首相など当時の政界の大物たちのほとんどが鬼籍に入ったことになる。
私はパリに着いた直後の革命記念日のパレード、翌年の大統領選挙の演説会などで何度か姿を見たし、彼の実家の近くに住んで、その前を始発にした同じ路線バスでENAに通学していたなど、思い出はいろいろある。
父親のエドモンは、妻のもっていた貴族の称号を受け継いだ官僚で、そのコブレンツ(ドイツ)赴任中に同地で生まれた。パリでは16区のOECD事務局の近く、アンリ・マルタン通に住み、16区のリセ・ジャンソン=ド=サイイ、5区リセ・ルイ=ル=グラン特別学級を経て、エコール・ポリテクニーク(国防省理工科学校)、ENAで学び、財政監察院に就職した。
若くして首相補佐官を経てオーベルニュ地方クレルモンフェラン郊外で代議士になり、財務担当各外相となった。1962年にはドブレ内閣の財務相(1962~66)となり、ポンピドー大統領のもとでも再任された(69~74)。党派的にドゴール派でなく、第四共和政の主流だった中道派に属し、独立共和派という小政党を創立し党首となった。
1974年にポンピドーが死去したときに、ドゴール左派のジャック・シャバン=デルマス元首相(ドロールEU委員長はその補佐官)と社会党のミッテランに対して、リベラルな路線を標榜し、ポンピドー直系のシラク内相の支持を取り付けて勝利した。
人工妊娠中絶の合法化や離婚の自由化、選挙権年齢の18歳への引き下げ、TGVの建設など自由化を進め、経済でも市場経済化を推進した。最初に革命記念日のパレードを徒歩で行うなどのスタイルはそれなりに好評を博したが、夫人ともどもルイ15世の庶流子孫を主張するとか、典型的なインテリ顔、長身で貴族的振る舞いなどが鼻についたのも事実だ。品はいいのだが、にわか貴族の俗物と受け取られたのは惜しいことだった。
しかも、首相に就任したシラクが大幅な権限委譲を迫って容れられないことから辞職して基盤が揺らいだ。
また、早朝、朝帰りの途中に自分で車を運転して牛乳配達車に衝突したとか、中央アフリカのボカサ皇帝からダイヤモンドをもらった疑惑もイメージを悪化させた。
一方、1975年に先進国首脳会議をランブイエで、また、EU首脳会議をダブリンで開催することを提案し、これが世界的な多国間首脳会議の嚆矢となった。
日本の政治家との関係は必ずしもよくなかったが、先進国首脳会議の創立メンバーに日本を入れてくれたことは、日本が世界主要国としての活躍の場を得る最初の第一歩となり、大きな利益となった(当時の首相は三木武夫。引退後のOBサミットでは福田赳夫氏も主要メンバーとして交流が深かった)。
また、ドイツのシュミット首相とはきわめて親密であり、石油危機後の世界経済の安定的な運営に大きな貢献をした。仏独協調を強く主張し、第二次世界大戦の対独戦勝記念日を祝日から外すなど、ドイツへ大きな歩み寄りをした(韓国や中国におおいに見倣って欲しいところだ)。ただ、ドイツ生まれと言うこともあり、行き過ぎだという批判も多かった。
1981年の大統領選挙では、ミッテラン、シラクと三つ巴になったが、決選投票でシラクが事実上の中立を宣言したことが響いて僅差で敗れた。
引退後はフランス政界での役割は大きくなかったが、21世紀に入り、EU憲法の起草委員会のヘッドとして案をまとめた。これは、非常に高く評価されたものの、シラク大統領が国民投票にかけて敗北し実現を見なかった。批准された場合には、「初代欧州大統領」への就任が有力視されていた。
しかし、現在のEUの最高法規であるリスボン条約は、ほぼこの草案にそったものであり、ヨーロッパ統合への貢献は高く評価されている。
ここ数年は、公の場での登場は減っていたが、2018年にドイツ人女性記者からセクハラで告訴されて話題になった。