生粋の軍人だったマッカーサー元帥が解任され、表舞台から去る時に懸念されたことの一つは、共産主義との戦いが道半ばだったことであり、残された台湾の行く末だった。トランプ大統領は実業家の出だが、筆者は彼にマッカーサーと同じ匂いを嗅ぎ、今回のトランプ退場劇に同じ懸念を抱く。
本稿では、時計の針を1951年4月まで戻し、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任される辺りの経緯を追って見たい。
■
1950年6月25日に北朝鮮の突然の南侵で朝鮮戦争が勃発した頃、米国にはチャイナロビーとマッカ―シーの旋風(赤狩り)が吹き荒れていた。40年頃に始まった前者は、無論、蒋介石の中華民国(以下、国府または台湾)のもので、その目的は対日本から対共産中国(以下、中国)に変質していた。
対日戦で絶大な効果を上げた戦中のチャイナロビー活動は、主にハーバードとウェルズリーという名門大学に留学した米国通の宋子文と宋美齢(蒋介石婦人)の兄妹によるもの。美齢はタイムライフ社のヘンリー・ルースに気に入られ、タイムの表紙をいく度となく飾り、全米を講演して回った。
その結果、1940年から5年間に蒋介石の国民党は、借款645百万ドル、武器貸与826百万ドルを米国から供与され、対日戦に堪えた。勿論、それらは蒋や宋一族の懐も大きく膨らませた。その汚職ぶりは、軍事顧問スティルウエル将軍を通じて米国の知るところとなる。
トルーマンが再選を目指した1948年の大統領選には、日本占領中のマッカーサーも意欲をみせたが、現職軍人にその資格なく、共和党はデューイを選び負ける。デューイを支持した国府とトルーマンとの間に隙間風が吹くが、美齢は諦めずに渡米し、チャイナロビーの再構築を図った。
翌年10月には中国が成立、国府は台湾に逃れた。チャイナロビーはこの原因を、米国の容共主義が国府に十分な援助をしなかったためと喧伝した。毛沢東の中国も米国になびかず、50年2月にソ連と友好同盟相互援助契約を結ぶ。マッカーシー旋風が吹き始めたのはちょうどその頃だ。
共和党上院議員のマッカーシーが「政府に250人の共産主義者がいる」と述べたことは、40年後に公開された「ヴェノナ文書」によってほぼ間違っていなかったと証明された。が、当時は「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として、彼は54年に譴責された。
■
チャイナロビーとマッカーシー旋風、そして中ソの接近は、中国に傾いていたトルーマンの対台湾政策を変化させた。50年6月半ばには、米国防長官と統合参謀本部長が、台湾への軍事装備支援を与えるべきとトルーマンに進言した。朝鮮戦争の勃発の10日ほど前のことだ。
トルーマンは朝鮮戦争勃発の2日後、国連安保理に「(北朝鮮の」武力攻撃に反撃するに必要な援助を与える」決議を採択させると同時に、米第七艦隊によって台湾を中立化させる命令を出した。いわゆる「台湾中立化宣言」で、その骨子は以下のようだ。
- 北朝鮮の南侵で、共産主義の武力による他国征服の意図が明らかになった
- このような情勢下、台湾が共産主義の手に落ちれば太平洋全域の安全が脅かされる
- よって、私は第七艦隊に台湾に対する攻撃を防止するよう指令した
- 台湾の国府に対して、中国本土への全ての作戦行動の停止を呼びかけている
- 台湾の将来の地位は、日本との平和条約と国連による考慮を以て決定されるべきだ
中国は即座に反発、翌28日に周恩来外交部長が次のように述べて米国を激しく非難した。
- トルーマンは南の李承晩傀儡政権を操って朝鮮内戦を引き起こした
- だのに、我々の台湾解放を、武力を以て阻止すると決定した
- これは中国領土に対する武力侵略であり、国連憲章に違反する
- 台湾が中国に属することは歴史的事実で、カイロ・ポツダム両宣言でも肯定されている
- 中国全人民は米国侵略者から台湾を解放するためあくまで奮戦する
一方、大陸反攻を期す国府の反応は、以下のような微妙なものだった。
- 米国の要請を原則受け入れ、海・空軍の軍事行動を暫時中止する
- 対日平和条約締結まで、米国と国府が台湾の防衛責任を担う
- 台湾は国府の一部である
- 国府は共産主義との対決と国土保全政策を放棄しない
注目点は対日講和までは、台湾の防衛を米国と国府が担うと述べていること。つまり、台湾に対する国府の主権を認めていないのだ。何度か筆者も述べた通り、台湾の日本軍は45年9月2日、GHQ一般命令第一号に従って蒋介石元帥に降伏し、武装解除した。
だが、台湾の法的地位は、51年のサンフランシスコ講和条約で「日本が放棄した」に過ぎない。誰に対して放棄したかを敢えて論じるなら、それは講和条約の全署名国に対して、といえようか。勿論、国府でもないし、いわんや先の終戦時に存在すらしない共産中国でもない。
■
周恩来声明と同じ6月28日、蒋介石は国府軍3万の朝鮮派遣を米国に申し出た。マッカーサーの考えでもあった。が、アチソン国務長官は台湾の守りが弱くなるとして却下した。しかしマッカーサーは、国府軍に大陸の軍の集結を叩かせることを本国に提案、台北に赴いて蒋介石と協議した。
マッカーサーは「共産政権の支配に抵抗する蒋総統の決意が、太平洋地域の人々の自由を保ち、奴隷になってはならないと信ずる米国民と、利害と目的を一にする」との趣旨を声明した。が、これは先のトルーマンの「台湾中立化宣言」から一歩も二歩も踏み込んだ内容だ。
8月下旬にもマッカーサーは海外従軍軍人会長に送った声明の中で、「太平洋において融和政策と敗北主義に陥っている人々、つまりアジア人に気兼ねし、譲歩するような台湾防衛策をとる人々の古臭い主義ほど誤ったものはない」と書き、トルーマンを激怒させた。
が、解任も考えたトルーマンは思い直し、米国の行動は台湾にも中国のも偏らない中立で国連憲章を守ることであり、台湾の将来の政治的解決にも特定の見解を持っていないとの趣旨を手紙にしてマッカーサーに送る一方、ウェーク島まで出向いてマッカーサーと会談した。
中ソの朝鮮介入を気にするトルーマンに、マッカーサーはその可能性が薄いと伝え、真に受けたトルーマンが報道陣にそう述べた2週間後、中国義勇軍が鴨緑江を渡った。このマッカーサー発言の意図は謎だが、北への進撃が却下されるのを懸念して、中国の動きを知りつつ意図的に隠したとされる。
ウェーク会談を穏便に収めたもののマッカーサーはその年末、統合参謀本部に対し、中国の海岸を封鎖する、中国の産業力を艦砲射撃と空爆で壊滅する、国府軍を朝鮮に増援派遣する、場合によっては国府軍に大陸の弱い地域に反攻上陸させる、などとする政策を提言した。
これらを拒否されたマッカーサーは51年4月、共和党の強硬派に対して以下を訴える手紙を出した。紛れもなく政治に関与したその内容に、トルーマンは即座にマッカーサーを解任した。
-アジアこそ共産主義の陰謀家どもが世界征服の大芝居を演ずるために選んだ舞台だが、それは奇妙にも若干の人々には理解しがたい。アジアで我々は武器によって欧州の戦いを戦っているが、欧州では外交官たちが相変わらず口先だけで戦っている。もし我々がアジアで共産主義との戦いに敗れれば、欧州の没落は避けられないだろう。-
自由と平和を守るためには戦争をも厭わないマッカーサーに対して、トランプは流血を好まないとの違いこそあれ、両者の強固な反共と祖国を思う気持ちは共通していると筆者は思う。トランプの退場は、台湾のみならず中国と朝鮮半島を除く東アジアにとって痛手だ。