先月16日、「天職を見つけたことを示す7つのサイン」と題された記事がフォーブスジャパンにありました。その7つのサインとは、①計画を達成するための行動を取ることができる、②仕事に集中できる、③他者の反対にも動じない、④自分には何かが達成できると感じている、⑤大きな成果が出せる、⑥幸せに感じる、⑦進捗を遂げている、とのことです。私として天職と思えるか否かは、心底その仕事を楽しんでやっているか否か、だと考えています。
『論語』の「雍也第六の二十」に、「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とあります。その仕事が好きなら良いかと言うとそうでもなくて、楽しむという境地に到達しているのが正に三昧の境地です。此の三昧の境地に入り朝から晩まで寝食忘れて一心不乱に打ち込めているならば、それは天職と言えるのではないかと思います。
孔子は、「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみ」(『論語』)と言っています。之は、「物に感激しては食うことも忘れ、努力の中に楽しんで憂いを忘れ、年を取ることを知らない」といった意味になります。雑念を追っ払い何時も精神が潑剌(はつらつ)と躍動している中で、天と対峙するということに尽きると私は思っています。
仕事において若くして楽しむ境地に入るは、中々難しいことでしょう。最初の内は、全く楽しみを感じないかもしれません。しかし暫く経ってその仕事を深く知り段々と楽しくなってくることも数多あって、更にはそれこそ三昧の境地に入って行けるということもありましょう。
「素直であることが非常に大事だ」と松下幸之助さんが言われている通り、最初は何でも素直に受け入れてみて、与えられた仕事の意義を本当に理解しようと全身全霊を傾けて、簡単に諦めることなく突き詰めてとことんまでやり遂げてみるのです。その中で自分として「之をやらねばならない」「之はなさねばならない」といった気持ちが、必然的に湧いてくるものです。
そして次第に、之をやるのは自分自身の責務であるとの認識を深め、延いては自分自身の天命なのだという位に自覚するようになるのです。ですから、ある程度の期間その仕事をやってみた上で、天職かどうかを判断して行くべきだと思います。「10年やっても好きになれんわ!」ではしんどいかもしれませんが、3年やって直ぐ「もうつまらん!」と結論を下してしまうのも早計かもしれません。何れにしろ先ず大前提として、目の前に与えられた仕事に対し、一心不乱に取り組む姿勢を持ち続けることが肝要です。
佐藤一斎は『言志録』の中で、「人は須らく、自ら省察すべし。天、何の故に我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむる。我れ既に天物なれば、必ず天役あり。天役供せずんば、天の咎(とがめ)必ず至らん。省察して此に到れば則ち我が身の苟生すべからざるを知る」と言っています。
ここで言う「天役」とは、自分の天職と思える仕事を通じて天に仕えること、社会に貢献すること、即ち世のため人のために仕事をすることです。仕事を自分自身の金儲けのためや自分の生活の糧を得るためのものだと考えると、人生は詰まらないものになります。世のため人のためになることをするからこそ、そこに生き甲斐が生まれてくるのです。そして私は、自分の天分を全うする中でしか此の生き甲斐は得られない、と思っています。
『論語』の「尭曰第二十の五」に、「命を知らざれば以て君子たること無きなり」という孔子の言があります。己にどういう素質・能力があり、之を如何に開拓し自分をつくって行くかを学ぶのが、「命を知る」ということです。一角の人物になるためには、どうしても天命を知り、天職を得るような志を立てる必要があります。
それによって、最終的に「楽天知命…天を楽しみ命を知る、故に憂えず」という境地に到るのです。天命を悟り、それを楽しむ心構えが出来れば、人の心は楽になるという意味です。そうやって天に仕える身として常に自らの良心に背くことなく、社会の発展に尽くすべく仕事の中で世のため人のためを貫き通すのです。
最後に本ブログの締めとして、明治の知の巨人・安岡正篤先生の言葉を御紹介しておきます。次の言葉は、そのまま仕事を天職にして行く極意と言って良いでしょう――石川啄木の有名な歌の一つに、「快く我に働く仕事あれ、それをしとげて死なんと思ふ」というのがあります。人間は、ただ生きるというだけではつまらないことで、意義あり感激ある仕事に生きなければなりません(『心に響く言葉』)。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年12月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。