まるで一個の人間のごとく…
日本の議論でよく見かけるのは「国家・政府の擬人化」である。国家・政府がまるで国民から完全に独立した一個の人間のごとく語られる。
何かをわかりやすく説明するための方便とか「頭の体操」ではなく、批判・攻撃のために擬人化されることが実に多い。
例えばコロナ禍では「政府の支援の手が届いていない」、日米同盟では「日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」といった具合である。
しかし「政府の支援の手」といっても「手」の部分はほとんど語られない。「手」の部分を真面目に考えれば現場公務員の権限、人員、資機材その他執行体制の話にしかならないが、そんな具体的な話にはならない。
「日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」といっても日本のどの地域、どの統治機関から巻き込まれるということも議論にならない。だから被害想定の話にもならない。
この「国家・政府の擬人化」論法で特に悪影響が大きいのが憲法論議である。
日本の憲法論議では「国家権力を縛るのが憲法だ」が力強く主張される。
例えば2015年の集団的自衛権の限定行使を容認した安保法制を巡る論議では同法の反対の根拠として「国家権力を縛るのが憲法だ」が力強く主張され、筆者はてっきり集団的自衛権の行使に対する国会関与の強化の主張だと思っていたら、集団的自衛権の行使を全く認めない意味だった。結局、日本の平和をどう確保するのかという議論にはならなかった。「国家・政府の擬人化」が建設的議論を妨げたのである。
この「国家・政府の擬人化」論法では主権者たる国民が民主的に選出した「国民の代表者」即ち国会議員は国家・政府に回収され国民から完全に分離し、これを民主的基盤のない憲法学者・学者・ジャーナリストが指導することが「民主主義」になっている。
「国家・政府の擬人化」で利益を得るのは限られた者、しかも「庶民」「生活者」とはとても呼べない者である。
国家・政府を擬人化して、これを批判することは小気味よく聞こえなんとなく国民の利益に資するような感覚になるかもしれないが実際は特定党派によって我々主権者の声が一方的に回収、無効化されているだけである。
擬人化はあくまで「説明の方便」「頭の体操」としてのみ意味があり、それ以外はマイナスの方が大きい。政策論争に馴染まない、いや、妨げるものと言っても良いだろう。
日本の長期停滞の原因は諸説あるが、その一つとして国家・政府を擬人化して無内容な主張を公的空間で大真面目にして議論を停滞・混乱させる者が多過ぎることを挙げても良い。コロナ禍では建設的議論が強く求められるから国家・政府を擬人化する主張には要注意が必要である。