創意と情熱で逆境をバネに、成長続ける日本のクラシック音楽文化

小田島 久恵

コロナ禍でエンターテイメント業界は大きな打撃を受けているが、なかでも三重苦・四重苦のダメージを被っているのが、クラシック音楽業界だ。

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通常1年を通じて海外からのアーティストが多数来日し、コンサートは文字通りホール空間という「密」の状態で行われる。多くの音楽家はヨーロッパからやってくるため、今や入国制限や2週間の隔離待機などのハードルを超えなければならず、2020年から現在までに数え切れないほどの海外オーケストラ、オペラ、声楽家、その他多くの器楽奏者の公演が中止となった。

2020年2月末から全国ツアーをスタートさせる予定だったエーデボリ交響楽団は、メンバー全員が来日を果たしたものの、公演を行わずに帰国。2011年3月の震災時に来日していたフィレンツェ歌劇場が公演半ばで、イタリア政府の要請によって帰国したときのことを思い出したが、それより事態は深刻になっていった。

3月上旬のパリ・オペラ座バレエ団は徹底した体温検査と消毒・換気によって全公演を遂行したが、それ以降のホール・イベントは軒並み中止・延期となり、毎日のように行われていた東京のコンサートは、ほぼ停止状態になった。その中には、毎年上野で一か月かけて開催される『東京・春・音楽祭』や、ゴールデンウイーク名物の『ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン』のような大規模なイベントも含まれていたのである。

予定されていた演奏が出来なくなったアーティストは失望し、音楽事務所や招聘元はかつてない窮地に直面し、先が見えなくなった。   

そんな中で音楽ファンを最初に驚かせたのは、昨年3月上旬、びわ湖オペラのワーグナー『神々の黄昏』の無観客上演で、多くの人々が熱狂的に無料ライブストリーミング配信を視聴した。「ネットでクラシックのライブを楽しむ」という「救い」のようなものが見えたのがびわ湖のワーグナーだった。

毎年7~8月にミューザ川崎シンフォニーホールで開催される『フェスタサマーミューザ』では、また驚くような試みが行われた。東京交響楽団の首席指揮者であるジョナサン・ノットの来日が叶わず、代理の指揮者を立てずに「映像による指揮」でベートーヴェンの『交響曲第3番《英雄》が演奏されたのだ。リモートでは時差が出るというので、あらかじめノットの「エアー指揮(!)」を録画し、メンバーはその映像とともにリハーサルと本番をこなした。「リスクはチャンスである」という英国の伝説的リーダー、ウィンストン・チャーチルの名言を、ノット監督が体現した瞬間だった。

2020年はベートーヴェン生誕250年のメモリアル・イヤーであったため、年末恒例の『第九』は例年にも増して盛大に上演されるはずだった。第九には声楽ソロと合唱が舞台に上るため課題は山積みで、歌手はディスタンスに留意し、フェイスシールドを装着するなどの対策が取られた。さまざまな苦労を重ねてほとんどの在京オーケストラが例年通り第九に乗ったが、東京都交響楽団だけはチャイコフスキー『くるみ割り人形』に曲を変更し、大野和士音楽監督のもとバレエ音楽で年末を飾った。「何が何でも第九でなければ」という紋切型から離れてもいい、というメッセージがあったと思う。一方、この時代にしか表現できないような第九の名演が、いくつかの団体で聴かれた年でもあった。

忍耐と待機、工夫と試行錯誤の連続だったが、プラスの面もあった。日本に来ることのできない海外アーティストに代って、日本の若手の演奏家たちが、一気にレパートリーを飛び級させて、高度な演奏を代役としてこなしたのである。

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「誉れ高い代役」を経験した若手の中でも、ヴァイオリニストの成田達輝の成長はめざましく、オペラシティ主催コンポージアム2020『トーマス・アデスの世界』では、カリスマ女性奏者リーラ・ジョセフォウィッツの代役として、ハイレベルな技術を要するアデス作の「ヴァイオリン協奏曲《同心軌道》」を弾き、読響の定期公演ではセバスチャン・ヴァイグレの指揮のもと、ナチスの暗黒時代に生きた作曲家ハルトマンの「葬送交響曲」を見事に演奏した。

ピアニストでは人気の務川慧悟がセルビアの名手ミッシャ・ダチッチの代役でプロコフィエフの『ピアノ協奏曲第2番』に挑戦。難曲を勇敢に弾き切った。オペラや声楽でも、外国人キャストのほとんどが日本人に代わったBCJ=バッハ・コレギウム・ジャパンの『リナルド』や『メサイア』は話題を呼び、『リナルド』でタイトルロールを歌った藤木大地は、2020年最も(代役としても)活躍したカウンターテナー歌手となった。

指揮者では若手の原田慶太楼、角田鋼亮が頭角を現した年で(原田は東京交響楽団の正指揮者)、女性指揮者も二期会オペレッタデビューを飾った沖澤のどかが既に一流の風格。先日藤原歌劇団の『ラ・ボエーム』のピットに登場した鈴木恵里奈も、先々まで忙しいスケジュールが詰まっている。日本人演奏家はコロナ禍によって、逆に忙しくなり、高度な作品を演奏する機会を得て、急成長を果たしているのだ。

こうした状況は、演奏会自体行うことが不可能になっている欧米では起こりえない事態で、わが国独特の現象だ。緊急事態宣言下で客席は市松模様に座らなけれはならないが、今のところ何としてでも「コンサートを絶やさない」努力は各所で行われている。

東京は音楽文化のある種のパワーポイントになっていて、在京オケの定期公演のために日本に来たマエストロが、そのまま日本滞在を求められ、数週間後のオペラの指揮を振って帰っていったりする。マキシム・パスカルとセバスチャン・ヴァイグレはそれぞれ読売交響楽団との共演のために来日し、代役指揮者として二期会の「サムソンとデリラ」(パスカル)と「タンホイザー」(ヴァイグレ)に貢献する形となった。

ある種のカオス的状況だが、逆境にどんどん強くなった音楽家たちは、より一層音楽を愛し、精神性を深め、音楽する喜びを噛み締めているようだ。


小田島 久恵
岩手県生まれ。地元の大学で美術の教員免許をとった後、高校時代から投稿していたロック雑誌の編集部に入社。
2年後にフリーになり、多くのミュージシャン、俳優、文化人にインタビュー。北野武、松任谷由実、松田聖子のほか、クラシックではアントニオ・パッパーノ、ファビオ・ルイージ、シルヴァン・カンブルラン、イーヴォ・ポゴレリチ、ヴァレリー・アファナシエフ、ジルベール・デフロ(オペラ演出)ら多くのアーティストを取材。オーケストラ、オペラ、バレエを中心に公演評を執筆。