「結果がすべて。努力に価値はない」という二元論者が見落としている大事なこと

黒坂岳央(くろさか たけを)です。 

「努力は報われるとは限らない」という主張を目にすることが多い。しかし、努力とは「成果が出る、出ない」という二元論で語られるべきではないと感じる。もちろん、分野によっては成果がすべてを決することもある。ITテックビジネスのシェア争いにおける「Winner takes all(勝者総取り)」という世界においては、2位や3位にはない「1位」という成果に大きな意味があるだろう。

marchmeena29/iStock

だが、努力するプロセスに価値を帯びるケースは少なくないと思っている。今回はその点を論考したい。

努力することで適性が分かる

筆者が考える、努力するプロセス自体に価値があることの最たる例は、「適正の有無」がハッキリと分かることだ。これは成果が出る、出ない如何を問わず努力することでしか得られないフィードバックだ。

筆者は大学生の頃、「将来は会計を専門領域にしよう」と考えて簿記検定3級・2級を独学した。一応、合格できたのだが、「もっとこの分野を勉強したい!楽しい!」という気持ちはなかった。「よかった。合格できた」という安堵感が大きかった。今思えば、この時点で勇気ある撤退をするべきだった。

その後はCPA(米国公認会計士)の資格を取りにビジネススクールに通い、その後米国の大学留学先では会計学を専攻した。帰国後は外資系企業転職を経て、最終的に国際経営企画の部署で働く事になった。周囲から見て、「努力した結果、求める地点にたどり着いた」という点では、努力が成果をもたらした事例と言えるかもしれない。当時、稼いでいた年収はありがたいことに、平均相場よりかなり高かった。…だが、努力した筆者を待ち受けていたのは、「自分はこの領域について、才能も意欲もない」と自覚する残酷な事実だった。

人より2倍、3倍努力したことで、ようやく他の専門家に並ぶことができた。業務時間外の余暇時間を積極的に「学習にあてたい」という意欲も生まれることはなかった。つまり、自分が会計を専門分野にしようと思ったのは、「この分野の専門家になれば、市場価値を高めることができる」という条件だけで飛びついて事実そうなった。だが、「一生この分野で努力を続けたい」とはまったく思えず、努力の結果として、適正がなかったことが明らかになった。

「努力は成果が出てナンボ。努力に価値はない」という二元論に欠けている点を感じるのは、この経験からである。筆者はサンクコストに囚われ、適正のない分野に残り続けたことで限られた人生の時間をムダにした。「適正がないと感じる時点で早期に撤退せよ」ということを、筆者の反面教師として頂ければ幸いだ。

努力をすることが想定外の新たな価値を連れてくる

そして努力することの副産物的な価値は、本来目指していた成果とは異なる価値を連れてきてくれることにある。

筆者は大学卒業後、リーマンショックの打撃を受けて焼け野原となった就活戦線で苦戦を強いられた。どれだけ応募してもまったく相手にされず、「このまま一生無職が続いたらどうしよう」と眠れないほどの不安を覚えたものだった。

とにかくガムシャラに応募しながら、得られた知見がある。それは「変化するマーケットのニーズを鋭く嗅ぎ分け、市場が求める人材になることの重要性」だった。それまでは「自分は努力してきて、ビジネススキルも知識もある。きっと、高待遇で採用してくれる会社には困らないだろう」という傲慢な態度だった。だが、この態度が粉々に打ち砕かれた時、初めて市場ニーズの存在を深く意識することができた。この気付きは、就活でもがき苦しむ努力した中で見つけた、筆者にとっての光明だった。

あの時、必死に努力をすることで求めていた成果は「内定」だった。だが、それ以上の想定外のたくさんの気づきや経験をもたらしてくれたのは「努力するプロセスそのもの」である。

「成果の出ない努力になど価値はない」という二元論は、結果にしか焦点が当てられていない議論だ。そろそろ、この価値観が見直されていい時が来ている。

ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。