コロナで亡くなった「アドロ」のメキシコ人歌手アルマンド・マンサネーロ

昨年12月28日、アルマンド・マンサネーロ(85)が新型コロナウイルスで亡くなった。米国を含めた全てのラテンアメリカ圏で訃報が伝えられ、スペインのすべての紙面もページを割いた。

アルマンド・マンサネーロ Wikipediaより

マンサネーロとは

マンサネーロはポピュラー音楽「ボレロ(Bolero)」を愛情込めて蘇らせた作詞作曲家であり歌手であった。ボレロとは日本でいえば演歌といった位置づけだろうか。

マンサネーロは著名歌手とよくデュエットで歌っていた。彼の曲として日本で一番よく知られているのはアドロ(Adoro)だろう。60余年のプロ生活で作曲したのは400曲以上。一部の報道では600曲とも。

米国でも彼の曲をレパートリーに加えていた歌手にフランク・シナトラ、エルビス・プレスリー、ペリー・コモ、トニー・ベネットらがいる。ペリー・コモが歌った素晴らしい曲「It’s impossible」はグラミー賞にノミネートされたが、この曲はマンサネーロが作曲した「Somos novios(日本語曲名:私たちは恋人同士)」だ。スペイン語歌詞とは意味が異なる英語版である。もちろん編曲もしている。

マンサネーロの存在意義

2010年に亡くなったジャーナリストであり作家でもあったメキシコのカルロス・モンシバイスは次のように述べている。

「ロックやアメリカのバラードに影響されてボレロはもう廃れたとみなされていた。そんな時現れたマンサネーロは予期せぬ音声を持ち主だった。テノールが強調されたものでなく、またソノラ・サンタセラのトゥロピカルなものでもなかった。その音声は深くセンシビリティーを伝えるもので、忘れることのないメロディーを望んでいた聴衆に浸透して行くものだった。歌詞は最も奥深くにある感情に繋がるものであった」

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Pianista y compositor de los mejores boleros de la historia, tenía 85 años. Los más grandes aristas grabaron canciones como "Esta tarde vi llover" o "Somos novi...

ボレロの復活をより具体的に見ることができるのは1990年代に「メキシコの太陽」と呼ばれていたルイス・ミゲル(Luis Miguel)にボレロを歌わせたことだ。マンサネーロはルイス・ミゲルの為に1991年にレコード「Romance」を出した。それまでのマンサネーロの作曲したボレロをルイス・ミゲルの為に編曲したものであった。

「Romance」は大ヒットして700万枚も売れた。このヒットをきっかけにルイス・ミゲルはメキシコの歌手から世界の歌手に飛躍したのだ。その後、1997年に「Segundo Romance」と2001年に「Mis romances」を出した。1990年代にスペインでもルイス・ミゲルのファンが多く誕生している。このシリーズのヒットによって、マンサネーロのボレロは祖母、母、娘といった3代にわたって同じ曲を口ずさむようになった。

マンサネーロの生い立ち

マンサネーロはメキシコのユカタン州の首府メリダで1935年に生まれた。彼の父親はティピカ・ユカルペテン・オーケストラの創設者のひとりで母親はダンサーだった。祖父の妹はメリダの芸術学校の校長でマンサネーロはそこで音楽を学んだ。8歳の時に音楽家になることを決心したという。

最初はアコーデオンを弾くことを覚え、その後ピアノを習った。22歳の時にマンサネーロと同じユカタン出身の当時著名だった作曲家ルイス・デメトゥリオを頼ってメキシコ市に移った。その後メキシコCBSの音楽担当マネジャーとして勤めた。それからボレロの当時の著名歌手の伴奏ピアニストにもなった。その中には当時著名だったルーチョ・ガティカがいた。

マンサネーロは、メキシコ市内でルイス・デメトゥリオの作曲した楽譜をレコード会社に持って行ったりした。そうしているうちに、マリアッチのルベン・フエンテスや作曲家ラファエル・デ・パスと親交を結ぶようになる。彼らの紹介でレコード会社RCAと接触することができるようになった。そこで1967年「アドロ」を録音したのである。

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これを機縁にマンサネーロはボレロの作曲家として不動の地位を築く道を歩み始めるのである。

マンサネーロが語ったこと

マンサネーロが語ったことが各紙に掲載されている。その中から一部を抜粋して、彼の人柄を紹介したい。

マンサネーロはメキシコの作詞・作曲家著作権協会の会長を10年余り務めていた。その関係もあって、協会会員で著作権を侵害された作曲家から不満が彼にしばしば伝えられた。その時に彼は「音楽はひとり自然に生まれると人々は思っているようだ。だから何も(著作権使用料を)払う必要がないと思っているのだ」と述べて著作権を侵害された作曲家に同情を示していた。

彼の長年の業績を称えるアカデミーに出席した時に「Somos novios(私たちは恋人同士)を作曲した時に、(曲の通りに)恋人同士が愉しんでいる姿を観察していた時に、自分は作曲家になったと感じた」と語った。

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またマンサネーロは「Esta tarde ví llover(日本語曲名:雨のつぶやき)」がどのように生まれたかという経緯を語っている。

ある朝起きた時に今日は運が悪いような気がした。その日、編曲の仕事をして報酬をもらって彼の夫人と食事をしたいと思って家に電話を入れると、夫人は子供たちと映画を観に出かけてしまっていて、家でも食事は用意されていなかった。それで親友を食事に誘おうと思ったが、彼も既に食事に出かけていた。仕方なく一人レストランに入って食事をしていると、にわか雨が降り出した。それで通りの誰もが傘なしで足早にあっちに行ったりこっちに来たりしていた。ひとりぼっちで食事をしている自分に孤独感を覚えた。その時の孤独感を曲に表現したというのである。

最近流行っている音楽について、マンサネーロは「最近の曲を聞いていると私はもうその範疇に入るとは思えなくなっている。私の時代はもう終わったと。でも、私のやる気をそそるプロジェクトが生まれると、すぐに私はまた私の音楽の中に身を注ぐのだ」と前述のインタビューの中で語った。

「観衆は私の曲が愛について語っていることを好んでいるように思う。即ち、それはいつも希望が存在しているということだろう。パンデミックの中で生活している時は正にそれが必要だ。世界は細い針金の上を歩いているようだ。だからいつでも落ちる可能性がある」「今、私の人生が称賛されているようだ。それも神様からご加護を戴いているからだ」とスペインEFE通信に答えた。https://www.sinembargo.mx/28-12-2020/3914232

マンサネーロを称えた著名人の発言

次にマンサネーロを称えた著名人の発言を以下に紹介したい。

まずメキシコのアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール(アムロ)大統領から始めたい。マンサネーロがなくなった日の早朝の記者会見で「アルマンド・マンサネーロさんが亡くなったという知らせがあった。悲しいことだ。マンサネーロさんは偉大な作曲家で我が国の最高の作曲家だった。また社会面においても非常に感受性が強い人だった」と語った。

アムロは、マンサネーロがテレビインタビューで語っていたことを忘れることができないという。それは、「マンサネーロは中米のある大統領の結婚式で演奏することを約束した。すべてが常軌を逸した豪華なものだった。そこで彼が演じて歌うことになっていた。そうだとはつゆ知らなかった彼は内心そこで歌うことに抵抗があったが契約していたので務めを果たしたそうだ。しかし、マンサネーロさんは貧しい国でそれほどまでに豪華な祝宴会をやるのは屈辱的なことだと感じていた」ということだ。

その後もアムロは「マンサネーロさんは感受性が強い人だったが、メキシコの作曲家を代表する作曲家でもあった」と語った。哀悼の意を家族らに伝えることを表明したあとに「いつも愛情を込めて彼のことを思い出さねばならない」と述べた後、悲しさの余りもうこれ以上記者会見を続けることはできないと言って退席したのである。

ラテン・グラミー賞を授与するラテンアメリカ・レコディング・アカデミーは「ラテン音楽において取り戻すことのできない損失である」という声明を発表した。

スペインを代表する歌手のラファエルは「私からの敬服と尊重を捧げたい」と伝えた。

プエルト・リコ出身の歌手オルガ・タニョンは「Somos noviosを録音し、先生と一緒に歌うことが出来たのは私の人生にとって最も偉大瞬間だった」と述べた。

キューバ生まれのメキシコのシンガソングライターフランシスコ・セペダスは「もう何を言ってよいのか分からない。もう私は死にそうだ」「(先生は)私の心の中に永遠にとどまっている。私に与えてくれたことに永久に感謝している。それでも、先生と一緒にいることが出来なくなって心が痛む思いだ」と語った。

メキシコの歌手ロシー・アランゴは「音楽家として素晴らしい以上に、人として最も偉大な人と知り合えて感謝している」とネットで伝えた。

「心から感動することが難しくなっている今の世界で、あなたの曲を通して喜び、愛すること、悲哀、希望、それらをすべて感じるようにしてくれた」と述べたのは政府の秘書官アレハンドゥラ・ファウストの言葉だ。

メキシコの主要テレビ局は予定の番組をすべて中断してマンサネーロの訃報を伝える特別番組を放送した。

ルイス・ミゲルとの関係

最後に、彼のボレロを若い世代に広めたルイス・ミゲルとの関係を伝えたい。一時「象が針の目を通り抜ける方が、ルイス・ミゲルが隣人のために何かをすることよりも容易だ」とマンサネーロが語っていた。

それはルイス・ミゲルが頂点に上り詰めてマンサネーロへの礼を欠くようになったことを指摘したのであった。コンサートで共演する予定だったのに、急遽ルイス・ミゲルがキャンセルしてしまったのだ。マンサネーロはルイス・ミゲルに立腹して非難するのではなく、彼の礼儀を欠く行為を残念がっていたのだ。

マンサネーロは情熱の塊のような人物であったということだ。物質主義がますます人間を支配する世の中で、マンサネーロの曲はそのすべてが濁りのない彼の純粋な情熱から生まれたものだった。だから、彼の曲を歌い、また彼とデュエットを組んだ歌手は、誰もが彼の人間性に魅了されたのだ。

アルマンド・マンサネーロ Wikipediaより

だからそれを聞く聴衆の誰もが彼の曲を好きになるのである。