ウィーン市1区中心部のシュテファン大聖堂からペスト記念柱(Pestsaule)のあるグラーベン通りを抜け、コールマルクトに入るとホーフグルク宮殿の門が見える。そこを潜り抜けると英雄広場だ。その新王宮には欧州安全保障協力会議(CSCE)の会議場があり、その横は現在は国立図書館だ。その建物の最上部にはアドルフ・ヒトラーが1938年3月15日、オーストリアのドイツ併合(Anschluss)宣言を受け、凱旋演説をしたバルコニーがある。国民からは「ヒトラーのバルコニー」と呼ばれてきた。1945年の敗戦後、同バルコニーは閉鎖はされた。そのヒトラー・バルコニーのオープンを求める声がここにきて高まっている。
アドルフ・ヒトラーは1938年3月13日、母国オーストリアに戻り、首都ウィーンの英雄広場で演説をした。同広場には約20万人の市民が集まり、ヒトラーの凱旋を大歓迎した。その後の展開は歴史がはっきりと物語っている。
オーストリアはドイツに併合され、ウィーン市は第3帝国の第2首都となり、ナチス・ドイツの戦争犯罪に深く関与し、欧州を次々と支配していった。同時に、欧州に住むユダヤ人600万人を強制収容所に送り、そこで殺害していった。蛮行は旧ソ連赤軍によって占領されるまで続いた。その後、カール・レンナーを首班とした臨時政権が発足し、第2共和国の建国が宣言された。
オーストリアは戦後、「モスクワ宣言」を拠り所として久しくヒトラーの戦争犯罪の被害者と主張してきたが、クルト・ワルトハイム元国連事務総長の大統領選ごろから「世界ユダヤ人協会」から激しい批判が飛び出していった。ちなみに、1943年の「モスクワ宣言」には、「ナチス・ドイツ軍の蛮行は戦争犯罪であり、その責任はドイツ軍の指導者にある」と明記されている。
同国がヒトラーの戦争犯罪の共犯者だったことを正式に認めたのはフラニツキー政権が誕生してからだ。同国は戦後、長い間、ナチス政権の犠牲国の立場をキープし、戦争責任を回避してきたが、フランツ・フラニツキー首相(在任期間1986年6月~96年3月)はイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて認めたことから、同国で歴史の見直しが始まった。そこまで到達するのに半世紀余りの年月を必要とした(「ナチス政権との決別と『戦争責任』」2015年4月29日参考)。
オーストリアは戦後、ヒトラーと関連する建物、歴史的遺産などを出来るだけ外国からのゲストだけではなく、国民の目にも見えないように腐心してきた。ヒトラーと関連する事例には平静に対峙できないからだ。オーバーエスタライヒ州西北部イン川沿いのブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)にあるアドルフ・ヒトラーの生家を家主から強制収用できる法案が審査された時、国民の間でその是非についてさまざまな議論が出てきた。決着がつくまで数年が経過したほどだ。
ドイツ併合後83年目の今年、ヒトラーがオーストリア国民に向かって凱旋演説したバルコニーの開放が求められるようになったわけだ。新型コロナウイルスの感染拡大でロックダウンが実施されているこの時、凍結していた歴史的場所の開放を求める声が出てきたのだ。同国メディアによると、国民の多数はヒトラー・バルコニーのオープンを支持しているという。
支持派の1人、「歴史ハウス」のモニカ・ゾマー所長は13日、「バルコニーから議会、ウイーン市庁舎、連邦首相府、連邦大統領府が見える。すなわち、ヒトラーが演説した忌まわしい場所から現在、新しく生まれ変わったオーストリアを観ることができるわけだ。歴史を学ぶうえで最高の場所ではないか」と主張し、その開放を求めている。メディアでは開放反対の声は聞かれない。
ところで、オーストリアでは1421年、ちょうど600年前の3月、オーストリア公アルブレヒト5世がウイーンに住んでいたユダヤ人を大量に虐殺するという出来事が生じている。ナチス政権下のユダヤ人大虐殺の蛮行の影にあって忘れられてきたが、歴史学者たちは「ユダヤ人が組織的に次々と殺されていった」と述べている。同5世は1420年5月23日、法令を施行し、フス戦争の影響、キリスト教化といった狙いもあってユダヤ人を虐殺していったという。
バン・デア・ベレン大統領はオーストリアのドイツ併合80年目の2018年の新年の演説の中で、「今年はヒトラー・ナチス政権のわが国併合80年目を迎える年だ。わが国はヒトラーの犠牲国であると共に、加害国だったという事実を単に記憶するだけではなく、心の中でしっかりと留めておかなければならない」と述べ、「人種差別主義、反ユダヤ主義、そして破壊的な民族主義を再び甦らせてはならない」と強調した。
同大統領には悪いが、歴史をもう少し遡ると、600年前にオーストリアの地でユダヤ人大虐殺が行われていたのだ。その意味で、ナチス政権での戦争犯罪だけではなく、オーストリアではユダヤ人の虐殺が繰り返されてきた。「なぜ……」という歴史問題の検証が求められるわけだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年3月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。