日本を覆う「気の緩み狩り」の地獄への道

篠田 英朗

新型コロナ禍の日本を覆う病理の一つは、「気の緩み」なるものを批判する風潮だろう。世の中の問題は、誰かの「気の緩み」で引き起こされている、という安易な紋切り型で、何かを考えているかのようなふりをする風潮だ。

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社会の構造的な問題から目を背け、ただ都合よく他人を批判することで、自分だけは問題に対応したかのような気になる病理だと言える。

これは社会を内側から破壊する危険な病理である。人の上に立つ人物にとっては、「俺の会社の成績が悪いのは部下の気の緩みのせいだ」、と言うのは、ほとんど生活習慣病のように断ち切ることが難しい甘い誘惑だ。したがって本来は、これを言わないことこそが、指導者としての資質の第一歩である。

ところが実際には、日本のように国民の平均的能力が高いのに、指導者層の能力が低い社会では、この病理への誘惑の力はあまりに強い。日本のような社会では、指導者は、無能であればあるほど、部下を脅かすことを通じて成績を上げようということしか思いつけなくなる。

日本の新型コロナへの取り組みがそれなりの成績を収めている背景に、真面目な国民の日々の取り組みがある。ところがそれを見た無能な指導者は、ニヤリと笑って、「ウィルスがゼロにならないのは、国民の気が緩んでいるからだ、もっとしっかりやれ」、とだけ言って、自分は仕事をしたかのように気になる。

万が一、「気の緩み」なるものが問題の背景にあると分析するなら、少なくとも「緩み」とは何なのか具体的に定義する必要がある。なぜ緩んだのかという問題分析を抜きにして、「緩みが原因だ」といった抽象的な表現で何かを言った気になるのは、最低である。もし仕事のモラルが低下したのなら、それは経営者の責任だ。

「勝て、と言ったのに、なぜ勝たないんだ、気が緩んでいる、腕立て伏せ100回だ」、と叫ぶ大日本帝国軍の高級将校や、中学校の部活動コーチの理不尽と同じである。多くの日本人は、この理不尽を体感でよく知っているはずなのだが、それ以外の指導者をよく知らないものだから、自分が指導者になったとき、どう振る舞っていいかわからず、つい同じように振る舞ってしまう。

この病理は、技術的には、日本におけるリーダーシップ研修の不足、指導者育成制度の不足、といった問題に行き当たる。ただし社会的認知の文化的事情に根差しているだけに、社会全体の風潮を変えていくのは、大変なことではあるだろう。

残念ながら、新型コロナで復活してしまったようだ。

公務員が作成した法案に不備が多数見つかったことをもって「気の緩み」だとしか分析できないのは、こうした病理が深刻な事態に至っていることを示しているように感じる。

誤字・欠落…政府提出法案にミス続く「前代未聞の緩み」(朝日新聞デジタル)

民間ならダメ経営者しかいない組織は、自然に淘汰されていくだけだろう。だが国家運営だとどうなるのだろうか。心配な気持ちにならざるを得ない。