『安全第一』から『安全安心』への社会変化に必要な思考回路

安全は全てにおいて最優先するべき事項である。工場・プラント・建設現場などに、大きく『安全第一』と掲げられているのを一度は見たことがあるだろう。そこで働く人の『安全』が担保されなければ、結果としての事業や製品の品質にも差し障り、事業継続が困難になるのだから。国家でも同じだ。安全でなければ、国民の生命・生活に支障を来たすのだから、安全確保が国家の最大の責務なのだ。

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では、最近よく耳にする『安全安心』とは何か、『安全第一』と何が異なるのか。その理解をせずに都合よく乱用されているケースが多いのは憂うべき事なのだ。

安全と安心の定義

まず、安全と安心の定義、何が異なるのかを確認したい。

安全とは、危険ではない状態、許容できないリスクがないことであり、客観性と科学的事実にに基づく検証と評価が必要であり、主観的であってはならない。

一方で、安心は、主観的に評価してリスクの少ない状態のことであり、安全を心で感じるものなのだ。従って、極めて主観的であり心理的な評価になる。

この安全と安心の状態を4象限で表すと下図の様になる。

右上と左下の象限、つまり安全と安心が同等の評価を受けている状態は、ある意味正常な状態である。

右上の安全・安心が両立している状態は、言うまでもなくベストの状態であり、この状態は、科学的データの公開、説明責任の履行で継続できるだろう。

左下の不安全で不安な状態は、不安全である事を認識できており、その科学的対策を客観的に実施する事で、この状態を脱する事が可能である。民間の事業であれば、安全策の実施が確認できるまでサービスを利用しなければ良い。国家事業であっても、厳しい追及を継続すれば良い。不安全が見える状態なだけ、健全ではある。

問題は、右下と左上だ。左上は、言わずもがなだが、科学的に不安全状態を不安に思わず、安心している状態なので、どの様なリスクが顕在化してもおかしくなく、危険と隣り合わせが放置されている。

この状態が発生する原因は、不安全な状態の説明が充分に為されておらず、周知が甘い、或いは、意識的に隠ぺいされている場合。そして、逆説的には、どれだけ説明しても聞く耳を持っていない状態だろう。

次に右下だ。これは、科学的に安全な状態にもかかわらず、不安を抱いてしまう社会不安状態で極めて危険だ。安全性の説明が不十分な状態もあり得るだろうが、往々にして、どれだけ説明しても聞く耳を持たない、感情的、情緒的な脊髄反応が主原因の場合が多い。本人は、僅かに存在するリスクを極大評価していることに気付かず、非科学的に妄信してしまう。100の安全性データがあっても、1のリスクで安全性はゼロと断じてしまう、勝手論理なのだ。

この状態に陥ると、何も前に進めることが出来なくなる。回避行動として、タブー視し、隠蔽などの悪循環に至る可能性がある。これは、左上の状態を他に多数発生させる危険性がある。また、社会不安状態となり、人心を扇動する独裁者が現れやすい社会環境でもある。

不安状態を回避するには

民間企業の事業、サービスの場合、基本的に右上の状態でないと成立しない。安心を勝ち取らないと、需要が無くなるからだ。例え、左上の様な不安全で安心となっても、いずれ発覚し、その時の信用の毀損はとてつもなく大きいため、余程の悪徳企業でもない限り、この象限には向かわない。右下の状態の場合、安全性を強く訴えるだろうが、理解されない場合、市場が受け入れなかったとして事業撤退の選択となるので、これも継続的に存在しえないのだ。

しかし、国家事業や行政となるとそうはいかない。事業撤退など出来ないからだ。だから、何が何でも説明し、安全である事を納得してもらう必要がある。逆に言うと、政局的にも攻め所であり、政治利用は激しくなりがち。同様に、政府を監視する使命を自負するメディアも、ここぞとばかりに不安を煽り、視聴率を稼ぐ。結果は最悪の社会不安状態でしかなくても関係ない。

この危機的な不安状態に陥る事を防ぐ方法はあるのだろうか。煽るなと言っても、止めるはずもなく、法的な縛りを設けようとしても、煽りのネタが増えるだけで、激しさを増すだろう。与党を追い込む絶好のチャンスとして、結果の責任も持たないで、野党の攻撃が増すだろう。本来危機的な不安状態では、与野党関係なく、メディアも含めて、緊急事態という名に相応しい協力体制で国難に向かうべきだが、現実はそうはならない。

本質的には、民主主義で選択された政権を信じ、委ねるべきである。しかし、これだけ政権とは別に不安を煽る構造が充実していれば、弱い人間は次の選挙まで待つという余裕もなくなり、不安が爆発してしまう。人間は、精神的に弱い動物だ。本能的、動物的な危機察知よりも、精神的な脅し、脅迫に弱い。命の危険、財産の危険などで不安を煽れば、論理的には理解出来ていても、意味不明の不安を抱きやすい。継続的に不安が高まれば、いつの間にか、論理も拭き取んでしまう。

そうすると、最後の砦は、国民一人一人であろう。個々人が責任を持った思考回路を働かせ、論理的に、是々非々で判断する責任が重大となる。本来、民主主義とは、例え間接民主主義であろうとも、一人一人が有権者として政権運営に責任を持つ。その為の選択の手段として選挙がある。

世の中、ゼロリスクにはならない。リスクがある限り、少なからず不安も生じる。確率が低かろうとも、当事者になった場合は、それは自身にとって100%の事実なのだから、不安を持つのは仕方がない。

結局、不安な事は、安全性の論理的、科学的、そして客観的考察によって和らげることしかない。それでも、不安全であれば、少しでも自身が安全に向けて出来る事を考えて実行するしかない。出来ない事を、あれこれ悩んでも、不安が増すだけで、何も良くならない。あくまで出来る事を一つ一つ着実に実行するのだ。そのプロセスが、前向きなモチベーションにもつながり、不安も解消していくという正のスパイラル効果も期待できるのだ。