ただの子ども…日本型立憲主義者の正体~安保法制施行5年目に考える~

GHQには無力だった日本国憲法

最近、「立憲主義」について考えさせられる本を読んだ。まず歴史学者の山本武利著「検閲官~発見されたGHQ名簿 (新潮新書) | 山本 武利 」である。

本書はGHQによる日本国内の郵便・通信の検閲に従事した「日本人検閲官」に関する研究書である。

連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(1950年頃撮影)

GHQによる検閲は占領開始直後の昭和20年9月に開始され、昭和24年10月まで続いた。

本書はその実態を明らかにするものだが、重要なのは日本国憲法(1947年5月3日施行)で禁止された検閲が行われていたという事実である。

本書を読むと朝日新聞好みの「国家権力を縛るのが立憲主義だ」とか「憲法とは権力を制限するものである」という主張はどうでもよくなる。

日本国憲法は最初から権力を「縛る」ことも「制限する」こともできなかったのだ。

それにしても立憲主義者はGHQが日本国憲法に違反していた事実に何も思わないのだろうか。GHQは国家を超えた権力だったから立憲主義の枠外とでもいうのだろうか。

そんな立憲主義、守る価値はない。

もう一冊は衆議院議員の根本匠著「憲法をプラクティカルに変える」である。

本書では著者の根本氏と憲法学者の井上武史氏との対談が収録されており、その中で井上氏は安保法制反対派が使用した立憲主義について「『立憲主義』の使われた方は、憲法学の世界で国際的に通用している意味とは全然違うものです。」とし「立憲主義は特定の政策や統治者を評価する概念ではなく、その国の政治体制、つまり憲法を評価する概念ですから、まず使われる場面が違う。」と喝破する。

立憲主義は「特定の政策や統治者を評価する概念」ではないのだから、数年前に国会前でよく叫ばれた「安保法制は立憲主義に反する」といった批判は的外れだったのである。

立憲主義は良くも悪くも憲法を評価する際に使用される用語であり中国の脅威への対処を目的とした安保法制に対して立憲主義を持ち出すこと自体、不適当である。立憲主義は学術の用語に過ぎず政治家が国会で安易に使用すべきではない。

国会ではあくまで具体的な政策目的を達成するための議論がなされるべきである。

読者諸賢はもう気づいていると思うが立憲主義者はとにかく「目的」を語らない。

安保法制も立法目的(中国の脅威への対処)には触れずにただただ話を大きくして手続きに固執した。

日本国憲法の立法手続きに則り制定した安保法制を「強行採決」と批判し、何か非民主的なものであるかのように印象操作している。

この安保法制の議論の時から大量発生した「日本型立憲主義者」とでも呼ぶべき者は何者なのか。

ただのこども…日本型立憲主義者の正体

日本型立憲主義者の特徴は目的を意識せず手続きに異様にこだわり、それを根拠に国家や政府を批判する。既視感はないだろうか。これは親と子のやりとりである。

子どもはなぜ、親が働いているのか、家事をするのか考えない。

子どもは親が自分を育てるという「目的」のために働いている、面倒な家事をしているとは考えない。子どもにとって親の労働・家事は当然の話である。

だから労働はともかく家事を手伝える年齢になっても屁理屈を並べ家事を手伝わないのが子どもである。別に家事を代わりにやれといっているわけではない。自分の食器くらい自分で洗ってほしいとか洗濯物くらいを畳んでほしいという次元の手伝いすら屁理屈を並べて拒否する。子どもは親の労働・家事目的を意識しないから屁理屈を平気でいうのである。

日本型立憲主義者もこれと同じである。

「権力を縛るのが立憲主義だ。だから安保法制に反対だ!」と「洗濯物は同じ人が畳まないと変なしわできちゃうよ。だからいつもどおり、父さんの仕事ね」は同じ次元である。

日本型立憲主義の正体はただの子どもである。子どもだから日本国憲法がGHQという権力を縛れなかった歴史には無頓着であり目的を意識せずただただ手続きにこだわる。

そしてこの子ども達によって結成されたのが立憲民主党である。

今の日本は子どもに振り回されている。暗澹たる思いである。

参考文献