百済・高句麗の滅亡と新羅が唐に従属した正しい歴史

『日本人のための日中韓興亡史』で、日中韓の三国関係を詳しく書いたが、ひとつの転換点が、いわゆる新羅による三国統一である。しかし、この歴史は著しく歪められて日本人には理解されているので、今日はこの本の一部分を半分くらいに短縮して紹介したいと思う。現代外交にもつながる問題なのだ。

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高句麗は、防衛ラインを遼西方面に築こうと侵攻したのでは、一〇〇万の大軍を送ったが、将軍・乙支文徳が偽りの降伏で油断させ、平安道清川江で「薩水大捷」といわれる勝利をおさめた。乙支文徳は李舜臣とともに民族的英雄である。

唐が成立すると、太宗が高句麗を攻撃したが失敗した。優位に立ったた高句麗は、百済や日本と同盟して新羅を追い詰めた。新羅では、韓流ドラマで知られる善徳女王(六三二-六四七)が即位した。これを助けたのが、王族の金春秋だった。

百済は新羅に取られた領土の奪還を狙って攻勢に出た。新羅は唐に扶けを求めたが、女王を即位させたことをとがめられ、唐から国王を派遣するとまでいわれた。金春秋は、日本、唐、高句麗を歴訪し逡巡ののち、六四八年に唐太宗と屈辱的な同盟を結んで辛うじて生き残ったのである。

媚中媚韓史観の学者はここの肝心なことを日本人に隠しているのだが、朝貢だとか冊封というのは、日本も含めて中国の王朝に多くの国がしていたが従属性は高いものではなかった。それに対して、新羅が唐と結んだ関係は従属性が高かったのである。

それまでの高句麗、百済、新羅が中国の王朝や場合によっては日本とも結んでいたゆるい朝貢関係でなく、本格的な属国となったということなのである。 新羅は、六四九年には唐の衣冠礼服の制度を採用し、六五〇年に独自の年号を廃止し唐の永徽を用い、姓も中国風の一文字に大胆に変えたのである。日本統治時代の創氏改名などと比べものにならない思い切りのよさだった。

六五一年、新羅の貢調使が、唐風の服を着て筑紫に着いたので、大宰府では非礼と追い返したのだが、服制の変更は軽微なものではない、今日的にいえば、韓国軍の軍人が中国の軍服着て日本に来たようなものである。

唐の高宗は、作戦を変えて、先に百済を滅ぼして併合した(六六〇年)。日本は救援のために派兵したが、新羅の援軍も得た唐軍に惨敗した。

高句麗も、内紛で六六六年に唐に投降し、唐は新羅軍の助太刀を得て高句麗を降伏させ唐に併合した(六六七年)。百済や高句麗の滅亡は、唐による百済と高句麗の併合であって、新羅による統一戦争ではない。

唐は平壌に安東都護府(都督府より上位)を置き、半島と満州を統括させた。百済の王族を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使とし羈縻州(自治州)としてた。

さらに、新羅にも慶州に鶏林州都督府を置き、文武王は鶏林州大都督に格下げされた。新羅もさすがに受け入れず、六七〇年から唐と対抗するために、百済の貴族を重用したり、高句麗の王子に高句麗王を名乗らせて百済旧領の全羅道に置き、日本にも朝貢使節を出させた。

しかし、吐蕃(チベット)と唐が戦ったり、渤海が建国されたので、新羅が唐の渤海制圧戦争に兵を出すことを条件に、高句麗旧領のうち大同江以南と、百済旧領のすべてを新羅領とすることで七三五年に決着した。

伝統的な歴史観では、唐に併合された途中の経過を省いて、「新羅の三国統一」の完成といってきた。

その後も、新羅は、唐との関係が悪いときには日本に低姿勢をとり、朝貢して潜在主権を認めたことになる任那の調などもってきたが、唐との関係が改善すると対等の関係を主張した。七五三年には長安大明宮での朝賀で新羅が上位に置かれそうになる事件があり、遣唐使大伴古麻呂が新羅が日本の従属国であったことを指摘し、唐もそれを認めて順位を入れ替えた。

七五九年には、唐での安史の変をみて、恵美押勝は渤海と手を結んで「新羅が本来、属国であるにも関わらず日本に非礼である」として派兵の準備をしたが、怪僧道鏡を巡る恵美押勝と孝謙上皇との紛争のために実行に移せなかった。

これを「新羅侵略計画」と表現する日本人学者もいるが、中国も認めた日本の領土でありながら侵略された任那を回復し、同じく友好国だった百済を復興するための行動を侵略というのはふざけた話であろう。

古代における外交の最後は、新羅の恵恭王が、七七九年に「任那の調」をもった使節を日本に派遣したときである。日本は喜び、調子に乗って次回はきちんとした上表文をもってこいと命令したところ、新羅の使節は二度と現れなかった。最後に任那への潜在主権を確認して面子が立ったので、幕引きにしたということだ。