足りないのは健常者の「配慮」なのか?

高山 貴男

「配慮」の問題ではない

コラムニストの伊是名夏子氏の4月4日に投稿したブログ記事(JRで車いすは乗車拒否されました)が強い批判を浴びている。

彼女の振る舞いをここではこと細かくは書かないが、批判が多い理由は彼女の振る舞いは度を超えていて、もはや対応した駅員の「人間の尊厳」を侵すものとみられたからではないだろうか。

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批判を受けて、彼女とその支持者は障害者差別解消法を根拠に事業者(というより健常者社会)の「合理的な配慮の不足」を主張している。

はたして今回の騒動は健常者の配慮不足の結果なのだろうか。伊是名氏に対応した駅員に何か問題があったのだろうか。もちろん違うと思う。足りないのは健常者の「配慮」ではない。伊是名氏の「自立」の精神である。

伊是名氏に「自立」の精神が足りないことが、事前の確認・連絡を怠り、今回の騒動を招いたのである。車椅子ユーザーに「自立」を求めることはおかしいことではない。相手に自立を求めることはその者を同等以上の存在とみなしている証であり、逆に相手に自立を求めないことはその者を半人前・格下扱いしている証である。自立の要求は他者尊重そのものである。冒涜でも侮辱でもない。

従って伊是名氏とその支持者が言う「合理的な配慮の不足」といった批判に臆する必要はないし、うしろめたさも感じる必要もない。「なぜ、できることをやらないのか」というのは全く正当な批判である。

低調になった「障がい者の自立」の議論

かつて「障害者自立支援法」というものがあったが評判が悪く、一部障がい者団体が同法に関し「違憲訴訟」を起こし、あろうことか民主党政権はこの団体と極めて安易に和解してしまった。(参考:政府との合意書案 )

この和解の結果、障害者自立支援法は障害者総合支援法(正式名称:障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律)に改正されたが、重要なのは障がい者支援の重要法が一部利害関係者の要望で改正されたことであり、そのためなのか、法の名称から「自立」の表現が削除されてしまった。

障がい者支援の課題として、障がい者を「保護の客体」ではなく「権利の主体」として扱うことが挙げられるが、障がい者を「権利の主体」として扱うならば彼らに「自立」を求めることはおかしなことではないはずだ。

筆者の印象だと、民主党政権による和解から実務レベルはともかく政治や世間では「障がい者の自立」が正面から議論されなくなったように見える。

その代わり台頭してきたのが「配慮」であり、2016年4月施行の障害者差別解消法で「合理的な配慮」の文言が規定されてからは「配慮」の声は格段と増したように思われる。

ワンフレーズが好まれるSNSの世界では「合理的な配慮」という表現は拡散しやすい。今回の騒動でも「合理的な配慮」という表現は何度もみられた。

しかし、配慮とは一方的なものでは成立しない。いかなる配慮も一定のコストがかかる。一方的な配慮の結果、配慮する主体が破綻してしまったら本末転倒である。

一方的な配慮を避けるためにも、言うなれば配慮の増長を抑える「弁」が必要であり「自立」がそれを担うのである。

しかし、民主党政権以降、「自立」の議論が低調となり「合理的な配慮」の増長を抑える「弁」としての機能が低下したことが今回の騒動を招いたと言えないだろうか。

今回の騒動を機に議論すべきことは、日本のバリアフリーの整備推進や事業者の意識改革ではない。障がい者に自立を求めない限りいくらバリアフリーを整備しても、いかに事業者の意識改革を行っても意味がない。障がい者の要求がエスカレート、過激化するだけである。

議論されるべきことは「障がい者の自立」である。

そして現在の菅首相は福祉における「自助」を重視している政治家であり、「障がい者の自立」を議論する絶好の機会と言えるのではないか。