学校教育の歴史的分岐点に向き合う覚悟

学校教育に関する問題点が様々な視点で指摘されている。日本は、歴史的に見ると教育先進国であった。その証拠に所謂中世期から識字率が高かったり、国民のモラルの高さとして表れていたりする。しかし、その誇るべきはずだった国家としての教育レベルに対する問題の指摘が増大している。筆者自身は戦後教育の問題が大きいと感じてはいるが、そうは言っても過去は取り返せず、不要な摩擦を生み、建設的な議論とその先の改革には繋がらないので、一旦その事は置いておき、目の前の問題に前向きに向き合う姿勢で述べたい。

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いくつか整理して現状話題になっている事象を挙げてみる

  • 不登校ユーチューバーのゆたぽん氏による『中学校に行かない宣言』
  • 教員による児童生徒へのわいせつ行為が後を絶たず、私的SNS禁止に
  • 『#教師のバトン』プロジェクトに対する、ネガティブな炎上

他にまだまだあるだろうが、目の前で顕在化している事象だけでもこれだけある。筆者自身、以前学校現場と深くかかわった時期に垣間見たのも、極めて閉鎖的空間で、世間の一般常識と乖離した判断が堂々と行われていながら、内部の人達はその異常さすら感じていない状態だった。時には法律すら超越する聖域と化してしまう。同様の問題意識を持っても多くの保護者は口を塞ぎ、敢えて追求しないで闇に葬られることを容認する空気感が存在する。それは、問題化する事で結局、子供達に損害が生じるからであり、僅か数年の事なので我慢すれば過去として通り過ぎるという判断によるのだろう。

しかし、事ここに及んでは、国家としての一大事であり、自分事として語っていかなければならないのだ。

個々の問題検証

では、個々に検討を進めたい。まずは、1のゆたぽん氏の問題提起に関してだ。

学校の闇、閉鎖的な暴力やいじめに抗い、不登校になったが、その事を若干小学生時代からユーチューバーとして発信し続けてきた。ある意味、政治活動、言論活動なのであり、彼の言うことは正論である。非論理的な校則を問題視し、ホームエデュケーショを選択する権利を主張し実践している。ある意味成功例だろう。

しかし、これを一般化するのは少々無理がある様に感じる。ゆたぽん氏の子供離れした思考回路、コミュニケーション能力とそれを支えるご両親、家庭環境があって始めて成立するホームエデュケーション事案であり、他の子供達が真似をして権利を主張しても、多くの未習熟児童が大量発生するだけだろう事は容易に想像できる。

学校に行かなくても学べる環境を構築するまでには、まだ道のりは遠く、集合教育も必要不可欠だろうし、効果的な教育の浸透の為にはこの先も集合教育が主要となるべきだろう。しかし、中には別の方法の選択を容認しても良いケースも今後増加するだろうから、テストケースとして細かくトレースしながら、容認する条件や確認方法など検討を進めれば良いだろう。

次に、2の教員の資質に関する問題だ。

集合教育が必要不可欠だと言っても、それを支える教員がこの体たらくでは足元から崩れてしまう。そして、対応方針として耳を疑うのが、SNSなどでのやり取りの禁止だ。今の世の中、SNSぐらい使って、コミュニケーションを取る事は必須であり、わいせつ行為の要因と安易に判断するべきではない。あおり運転を撲滅する為に、車を全廃しようとは言わないだろう。わいせつ行為、性犯罪に及ぶのは再犯性の高い犯罪でありある意味病気とも言える。子供に教える資質の欠落は、SNSを禁止しても問題は解決しない。

3の『#教師のバトン』プロジェクトは別途投稿(『#教師のバトン』プロジェクトに見る教育界の改革策)しているが、教員の環境がネガティブ一色に染まっており、子供達ステークホルダー視点の要素に乏しく、とても前向きな改革に向かう空気感は生まれないだろう。

まとめると、資質の無い教員が多く、ネガティブな感情に支配された状態で、自分の頭で考えないロボットを再生産するだけの場所になってしまっている事になる。かなり厳しめの表現だが、学力は学校の授業時間は休憩して時間外に塾で身に着ける。スポーツなどの技能は、クラブチームなどで指導を受ける。コミュニケーション力や集団行動連携力などは、時代遅れの校則で縛らないと統制できない環境で育成出来様はずがないのだ。

前向きな改革の方向性

八方塞がりだが、前向きな改革なしに国としての発展はあり得ない。前向きな改革方法案をいくつかのカテゴリに別けて提案したい。

基本の5教科に関しては、徹底的にコンテンツのDX化を進めるべきだ。教師個人の教え方ノウハウで差が出るようではダメで、均質化する必要がある。また、児童生徒の能力や習熟状況に応じて徹底的にカスタマイズされた指導、個別課題の提示、習熟度確認が必要だ。その実現方法がDX化に他ならない。教師は、コンテンツクリエイターとなり、個々のカスタマイズのノウハウを積み上げる要員として機能してもらえば良いのだ。

上記以外に、問題に向き合い解決策を模索し実行する能力の育成も教育には不可欠な要素であり、その為に必要なのは、訓練である。グループディスカッションや議題のまとめ実践、時にはディベートやプレゼンテーションなども論理形成力を養う上で効果があるだろう。問題は、実施をどの様にするか、単純なカリキュラムで下して出来るものではない。これらは、民間の人材を活用する必要があるだろう。企業の定年が伸びるとはいえ、シニア世代に次の活躍の場、社会に貢献できる場を求める層は多い筈であり、この層をフルに活用すればよい。

部活動、芸術やスポーツなど特殊技能系の分野も同様に、民間の人材、クラブチームや地域社会との連携にて構造的に体制を確立するべきだろう。

これらの対策は、個々学校単位で行えるものではない。しかし、学校が抵抗勢力になっても改革は進まない。一般の業界で起こってきた、統廃合と同様、ある程度の規模感と統制力を持った体制に構造の再構築が必要だろう。

未来の日本を支えるのは、間違いなく、子供達である。今、子供達を主人公とした教育の抜本的改革を本気で目指す必要があり、その為には内部の力だけでは困難で、外圧でのスクラップ&ビルドがなければならないだろう。即ち、教育の歴史的分岐点に向き合う覚悟を全国民が持つ必要があるのだ。