「こども庁」創設は今本当に必要か

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起: 緊急事態宣言下で感じる同調圧力

「そういえば社会人になって25年目、早くも四半世紀目となる年度がスタートしたか」というちょっとした感慨に浸りながら、しんしんと雨の降る中、東京の自宅でこのエッセイを書いている。

今日は4月29日。ちょっとした重さを感じる「昭和の日」という名の祝日であり、翌30日(月末)には出さねばならないこのメールマガジン原稿の締め切り前日であり、また、ステイホームを連呼する小池知事の顔を想うと何とも動きづらい緊急事態宣言さなかのゴールデンウィーク(GW)初日である。つくづく自分もまた真面目で空気を読む一種の典型的日本人であり、色々な意味で何とも外出しづらい。

さて、このエッセイを通じて、おぼろげながら何とか言語化したいと思っているテーマを予め一言で表すならば「同調圧力と闘うべき正論の大事さ」ということだ。こう書いてみると、我ながら何とも大上段で小難しい感じがするが、出来るだけ平易に述べたいと思う。より正確に書くと、

  1. 日本は、ネットやメディアの言論空間を中心に、世間はとても自由で民主的に一見見えるが、その実、結構同調圧力がまだまだ強いということ、
  2. そのことが典型的如実に出てしまっているのが政治(正確には自民党をはじめとする政党内)の世界ではないか、

ということだ。

特に1についてはコロナ下での緊急事態宣言や国民の対応について、そしてまた、後段の2については「こども庁」創設に関して、それぞれ感じるところが大きいので、書きながら議論をまとめつつ、出来るだけ分かりやすく論じてみたいと思う。なお、本稿で特に言いたいことは、「こども庁」創設についての現下の事態における不毛さであるので、時間のない諸賢にあっては、以下の「転」の章だけでも目を通して頂けると有難い。許されるのであれば、全体を立体的に理解して頂く上でも、まずはしばし、前段の「承」の議論にお付き合いいただけると幸いである。

承:緊急事態宣言に思う。メリハリの付け方など、もっとやり方はないものか。

1年で3回目の緊急事態宣言にもかかわらず人流が意外に減少していることに驚いている。私見では、このことは各主体による積極的な協力姿勢の表れというよりは、「世間様」に指弾されないための同調圧力に従っているだけに見える。宣言下初日の平日の夜の人流は、場所によって差はあるものの、東京の歌舞伎町で14%減、渋谷で18%減、京都の四条河原で19%減、大阪の心斎橋で12%減と、軒並み1~2割も減ったという。もう辟易しはじめている中での3回目の宣言発出であり、しかも、一般の個人の外出に関しては罰則もない中で、この数字は個人的には驚きであった。

そんな中、私が住む東京都下の各自治体や事業者が、国の発令に対して、かなり唯々諾々と従っていることにも驚愕した。オープンエアで、感染事例も報告されていない公園(自治体管理)がかなり閉鎖されていたり、これまた、感染事例の報告がない百貨店が、軒並み臨時休業をしたりしている。伊勢丹や高島屋の主要店舗の売り上げは一日で数億円規模であることを考えると、1日20万円という協力金の給付は、ネット上では「香典」とも揶揄されているが、経営目線から言えばとても「協力」とは呼べない冗談みたいな金額である。空間の構造などにもよるが、換気実験や感染事例その他から判断して危険性は高くないと見られている映画館や劇場も、「社会生活に必要」と訴えて開業している一部の寄席などはあるものの(その後、再度の休業要請を受け結局クローズしたと聞いている)、私が知る限りほとんど横並びで綺麗に閉館している。そんな中、音楽やアートに関する映画を上映してきたアップリンク渋谷が、5月20日に閉館になってしまうという。従業員や多くの人の生活を犠牲にしてまで、良く分からない同調圧力に従う日本人や日本の組織は、果たして美しいのか、怠惰なのか。

昨年(令和2年)の自殺者数は、前年比で912人増の21,081人となった。前年(令和元年)比で5%近い増加だ。原因は厳密には証明できないが、後半にその数が伸びて来ていることから、新型コロナに伴う不況での経済苦・社会苦が大きな要因と考えるのが自然だ。

更に、警察庁発表の今年(令和3年)に入ってからの自殺者の月別推移を見てとても心配になっている。1月~3月合計の自殺者数が5,274名となっているが、これは、令和2年の同期間の4,908人と比べて、既に約7.5%増だ。不況の影響・経済苦は、コロナ感染拡大初期より、後からじわじわと影響が出て来るが、このままだと、今年の自殺者数は単純計算でも約1,500~2,000人増となり、コロナ前と比べると2,500~3,000人以上の命が奪われることになりかねない。

よく知られた話ではあるが、わが国は、社会の高齢化で毎年死者が逓増してきているにも関わらず、また新型コロナの流行にも関わらず、昨年の死者数は11年ぶりに減少した。しかも1万人近くも減少した。コロナ下にあって、昨年一年で、いわゆる超過死亡が認められないどころか純粋に減少している国は国際的に見て珍しい。そんな中で我が国では、上記のとおり自殺者数が激増しつつある。何に注力しなければならないか、つまり、メッシュの細かな分析をして、コロナ対策上、科学的に考えてリスクの低いところについては、経済・社会活動を極力止めてはならないことは明らかであろう。

これまた有名な話であるが、わが国は一般論としては世界有数の医療大国である。現在の感染者数で考えれば、現状、数字上はもっとも医療崩壊から遠いはずの国である。まん延防止措置や緊急事態宣言の大きな引き金となった病床数だが、実は、人口当たりのベッド数は、1,000人あたりで13床を超えており、2~3床に過ぎない英米の4倍以上で、主な欧州諸国と比べても2~3倍もある。つまり、コロナの猛威で医療崩壊を招いた各国の数倍のキャパシティがある。人口あたり医師数も、OECD平均よりはやや劣るが、英米とはほぼ変わらず、人口あたり看護師・助産師数はOECD比でも世界比でもかなり多い部類だ。

日本には「人助けのために頑張りたい」と、やりがいを持って医師を選んでいる個々の医師が数多いる。先述のとおり、国全体としては、諸外国比でかなり医療キャパに余裕があるはずである。そんな中、コロナ下で一部の病院や医療関係者に過度に負担を強いるだけになっていて「医療崩壊寸前です」と大騒ぎする政治のあり方に疑問を持たず、単に発表された流れに従うだけで良いのだろうか。「医療崩壊」を振りかざして「ステイホーム」と連呼し、医師会という名の利益団体に過度に忖度して、自殺に追い込まれかねない経済的・社会的弱者に犠牲を強いるだけの対応の在り方で本当に良いのだろうか、との思いを禁じ得ない。

「上に政策あれば下に対策あり」とは、強権国家である中国で民衆の間でささやかれる言説であるが、これまで述べて来たような状況にあって、とても素直に従順に呼びかけに応じる日本人や日本の組織は、素晴らしいと言えばそうとも言えるが、単に指弾されないための同調圧力に過度に敏感になっているだけにも思える。「頭がいい奴がルールをつくり、バカはそれに従うだけ。お前ら一生、搾取されるだけだ。それでいいのか。」と訴える、最近続編がドラマ化され放映が始まった『ドラゴン桜』の桜木弁護士の声が私の頭の中でこだまする。

しとしとと降る雨の中で思い出すのが、雨をテーマにした新海誠監督の2年前の大ヒット映画『天気の子』だ。以前、私は、あの映画のメインテーマは、同調圧力との闘いであるという主題で論考を書いたことがある。

映画の中では、終盤、警察・世間の圧力で主人公の帆高少年(家出少年)を事実上の庇護下から追い出さざるを得なくなる雇い主兼同居人の須賀圭介が、追い出した後で後悔を交えつつ、ウイスキーをちびちび飲みながら、また、止めていたはずのタバコをどうしようもないやるせなさの中で吸いながら、しみじみと言う。「人間歳とるとさあ、大事なものの順番を、入れ替えられなくなるんだよな。」

映画では、そんな圭介が、それまでは同調圧力に従うように帆高をたしなめていたはずなのに、最後の最後に、自分は逮捕されようとも、帆高が信念を貫けるように闘う大人の格好良さを見せるシーンが、即ち、大事なものの順番を正しく入れ替える言動がとても印象的であったが、この現実世界はどうであろうか。個人的には、政治に、特に自民党の若手議員などに、圭介の最後の場面のような形で、現在のコロナ対応のちぐはぐさという事態の打開を期待していた。が、正直、かなり期待外れになっている。一見、全然関係ないことに見えるが、そのことを象徴しているのが「こども庁」創設の動きである。

転:究極の優先順序の間違い。「こども庁」創設は本当に今やるべき話なのか。

手っ取り早く結論から書こう。要するに言いたいことは、今、こども庁の創設を議論している場合か、ということだ。上記のとおり、コロナ下にあって自殺者が急増する中、社会的・生活弱者対策は急務である。そのしわ寄せが「虐待の被害者」「ヤングケアラー(介護や家事などの家族の世話をしなければならない子供)」など、様々な形で子供に来ていたり、今後更に来るのは自明で、そういう意味での子供対策は急務である。

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また、コロナ下で、そもそも子供の元となる出生数が激減している。2020年の出生数は速報値だが、87万2,683人と発表されており、前年より2万5,917人の減少である。合計特殊出生率(一人の女性が一生のうちに出産する子供の平均数)は前年の1.42から1.36に急減している。第二次ベビーブームのピークである私の学年(1973年生)の約210万人とは比べるべくもないが、減少に全く歯止めがかからない。今から約5年半前、菅総理が官房長官をしていた時分の2015年秋に、当時の安倍政権は「2020年に向けた経済成長のエンジン」として「新三本の矢」を発表した。そのうちの一つの矢を「夢を紡ぐ子育て支援」として、出生率1.8を目標として掲げたが、現状、目標に近づくどころか、どんどん悪化している。

そういう意味では、子ども対策、少子化対策は喫緊の重要政策であることは論を待たないが、その答えがこども庁創設であるとは、どうしても思えない。優先すべきは、まずは全体的なコロナ対策、そして、その中で欠かせない子ども対策・少子化対策などであり、より具体的には、特に前者であれば、子どもに寄りそう人材をどのように確保・育成するか、特に財政制約がある中でどのように予算を確保するか等が優先されるべき課題である。このコロナ対応が喫緊であるご時世に、新しい省庁の創設、言葉を選ばずに書けば「組織いじり」をしようとするセンスは、少しでも経営ということを考えたことがある者であれば、また、行政組織を変えることの大変さ・重要さということを永田町や霞が関の世界から眺めたことがある者であれば、少なくとも現在のような緊急時には、決して出てこない発想であろう。

今年は、実は、中央省庁再編から丁度20年と言う節目の年でもある。2001年の1月6日に新府省(現在の中央省庁の枠組み)が発足した。当時現役官僚として、通商産業省から経済産業省への移行を経験したことなどを覚えているが、1府22省庁から1府12省庁にするという、かなり大掛かりな再編であったので、当然と言えば当然であるが、かなり丁寧な議論を重ね、相当な議論の変遷を経て、何とかまとまったことが思い出される。やるからには抜本的にやるべきということで、議論当時の橋本龍太郎総理のリーダーシップの下、内閣機能の強化、独立行政法人のあり方なども含め、かなり丁寧な議論・調整を重ねて数年がかりでようやく成立させたものだ。途中、かなりの省益のぶつかり合いなどもあり再編される省庁の組み換えなども多々起こった。一元化してスリム化すれば、つまり、省庁を大括りにしてまとめれば、縦割り行政が是正されて政策調整が容易になったり効率化が実現したりすると言われたが、現在、厚労省の再分割なども取りざたされることがしばしばあるように、特に肥大化した省庁においては、振り返るになかなか理想通りに行っていない面もある。

その省庁再編の実質的な議論を総理として主導した橋本龍太郎氏は、その後、森内閣において行政改革担当の大臣となり特殊法人の改革も主導した。総理経験者としては異例の就任である。内閣官房行政改革推進本部事務局に出向し、特殊法人等改革推進室にいたこともある私は、当時の議論をつぶさに検証したことがあるが、驚いたのは、橋本氏の議論の丁寧さである。決して表面的な「組織いじり」にならないよう、法人組織の在り方の議論の前に、徹底して事務事業を洗い出し、その在り方、廃止や統合の可能性をよく詰めた上で、法人組織の在り方を検討するという順番を間違えないように細心の注意が払われていた。余談であるが、その後、橋本氏に勝利して自民党総裁・総理となった小泉純一郎氏は、特殊法人改革に際して、「道路公団をぶっ潰す」「石油公団を叩く」という感じで、まずは「組織いじり」という橋本氏とは真逆の順番で世間の耳目を引いた。当時内閣官房で働いていた私としては、そうした本質を蔑ろにする変化が至極残念でもあった。

さて、話をこども庁に戻そう。報道によれば、こども庁は来年度にも創設させるというが、そうなると、遅くとも来年のしかるべき時期には法案を成立させなければならず、実質的な議論は1年足らずで(下手したら半年ほどで)終えなければならない。上記の中央省庁全体の再編ほどではないにせよ、こんなに拙速に、厚労省、文科省、内閣府、法務省、警察庁などにまたがる子ども・子育て関連の部局を再編する議論を今進めることが本当に重要なのだろうか。この間、本来であれば、国家の一大事にあってコロナ対策などに邁進するはずの厚労省などの官僚たち、特に残業が多く、霞が関の働き方改革もあって短い業務時間に多くの業務をこなさなければならない官僚たちが、「組織いじり」にかなり手を取られることになってしまうのは自明だ。

この手の再編となると、省庁間のさや当てが激化することは、上記の中央省庁再編時の例を見るまでもなく、火を見るより明らかである。こども庁についても、報道などによれば、既に文科省が主導権を握る案や、内閣府が主導して全体を差配する案などが対立していて、省益のぶつかり合いから来る「組織いじりの議論」が激化しつつある。また、政府全体としてみると、いわゆるグリーンやデジタルの重要性も取りざたされる中(実際にデジタル庁は間もなく発足)、そうした関連省庁の再編も含め、より抜本的に中央省庁のあり方などを中長期的には考えるべきであるところ、なぜよりによってこのコロナ下の緊急時に、この分野だけの組織再編を急いでやるのか、ということも良く分からない。

何より、もし本当に子どもに寄りそうことが大事だと考えるのであれば、また、少子化対策が必要なのであれば、組織以上に、まず、そうした人材や関連予算確保を優先するべきであることは誰が見ても明らかであろう。関係者に以前話を聞いたことがあるが、特に子ども対策は、本当に困難を抱えている方に寄り添える人材でないと解決は困難とのことであった。現在の検討資料には、「大臣をおいて強い権限を持たせる」とか「子どもを権利の主体と位置づけ縦割りを打破する」的な美辞麗句が並ぶが、

  1. 今、本当にやるべき優先順位
  2. 組織いじりをすることによる機会費用(省庁間で揉め、コロナ対応などに活用すべき官僚が疲弊する)
  3. 組織再編を時間をかけて丁寧に議論することの重要性・必要性

などを真しに検討したのか甚だ疑問に思える。

アメリカが全て正しいわけではなく、現にトランプ政権は新型コロナ拡大局面で初手を誤って大きな被害を出しているわけだが、かつて留学時に滞在した経験から鑑みても、同国の非常時の対応力が優れていることは認めざるを得ない。一方、日本は、平時のオペレーションは素晴らしいが、危機時には、首をかしげたくなるような機能不全がしばしば起こる。

発足して間もない米国バイデン政権は、発足して100日で、ワクチン接種を大きく推進すると共に、経済対策としても日本円で約600兆円とも言われる政策を矢継ぎ早に打ち出している。そんな中、バイデン政権は富裕層向けの大増税と共に、3月に「米国雇用計画」を発表し、先般、「米国家族計画」も打ち出した。中低所得者の保育負担軽減や、出産・介護などの包括的な有給休暇制度の確立、幼児教育の機会拡充で約1兆ドル(100兆円)を投じるという。子育て世代への税額控除(減税)だけでも1兆円近いプランだそうだ。

今、日本に必要なのは、子ども対策にしても、少子化対策にしても、コロナ下の緊急時における組織いじりではない。たとえバラバラではあろうとも、内閣府・厚労省・文科省などに、政策を実施する体制や機能は殆どあるわけなので、今は、まず、政治の力も官僚の力もそこに結集させ、具体的な対策や予算、必要な人員などを供給することではないだろうか。

結:政治においてこそ、自由で民主な自民党でこそ、同調圧力を跳ねのけての議論を!

一見、メディアやネットで様々な議論が飛び交っている日本ではあるが、実は、かなりまだ同調圧力が強くみんな「右に倣え」になりがちであること、特に、エライ人が何か指示を出すと、無条件に従いがちであることを、特に上記の「起」のところで詳述した。

色々と困難がある中で、ギリギリの対応をしなければならないことは重々承知しているつもりであはるが、「承」のところで詳述したとおり、やや乱暴な方向付けがまかり通っていて、政治は、本来はキャパシティがある医療全体などではなく、弱者に多大な犠牲を強いすぎていることを論難した。すなわち、この場合の「弱者」とは、コロナ患者を受け入れている全体から見るとごく一部に過ぎない献身的な医療機関(医師や看護師)はもちろんのこと、経済的・社会的困難から自殺を余儀なくされている人たちということになるが、政治主導で、そうした人たちに社会全体として過度の犠牲を強いていることの悲しさである。

そして、本稿でもっとも言いたかったことを述べた「転」のところでは、一見無関係にも見える「こども庁」について、今議論することの不毛さを強調した。そんなに難しいことではないと思う。普通に経営感覚があれば、また、特に官僚が置かれている状況やこれまでの省庁再編についての知識が多少なりともあれば、優先順位として当たり前のことを書いたに過ぎない。

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そして、終章である「結」で、特にここで強く言いたいのは、そうした意見が、どうして、本来、自由であり民主的である「自由民主党」から出てこないのか、という不思議である。寡聞にして私が知らないだけであれば不明を恥じるしかないが、どうも、検討本部にズラーっとならんだビッグネームに気圧されて、或いは、何となく進む議論に身をゆだねる中で、つまりは党内に渦巻く「同調圧力」の中で、物が言えなくなっているのではないだろうか。上が言ってるから、上がOKしたから、ということだけでは終わらず、部会や政審、総務会などで真剣に議論を重ねるのが自民党のいい所ではないだろうか。

国民の大多数が感じているのと同様に、正直、現実的な政権運営能力から考えて、今、自民党以外に国を委ねられる政党はないと私も思う。すなわち、自民党にしっかりしてもらわないと私はもちろん、国民全体が困る。若手を中心に、何が今、本当に大事なことであるのか、きちんと議論し、実行してもらいたいと切に願う。

かつて軍靴の足音が高くなってきていた1933年に、信濃毎日新聞の主筆だった桐生悠々は、「関東防空大演習を嗤(わら)う」という社説を書いた。その数日前に行われた陸軍の大規模な演習について、桐生は、「敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである」と断言し、敵機は日本沿岸までで防がねばならず、本土に侵入を許せば焼け野原になって敗北するのは必定だと説いた。まさに同調圧力に対する正論であった。こうした骨太な議論を期待したい。

書いているうちに忘れかけていたが、冒頭に触れたとおり、筆者が本稿を書いている今日は昭和の日でもある。植物をこよなく愛した昭和天皇は、那須で静養中に侍従らが皇居・吹上御所周辺の草を雑草として刈ったことを聞き、「雑草という草はない」という趣旨のことをおっしゃったそうである。「どんな植物でも皆名前があり、それぞれが自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草と決め付けてしまうのはいけない。注意するように。」とたしなめられたそうだ。

党内においても、主流派や雑草的な存在など、傍目には色々な立場の議員がいるとは思うが、一人一人が、各選挙区などで国民の代表として選ばれてきた、多くの人の期待を背負って「代議士」となっている議員である。「雑草」「陣笠」ということはない、と肝に銘じて、しっかりとした議論を同調圧力に屈せずに展開して頂くことを願ってやまない。