母の日という酷な1日

母の日であった。この日について、さらには「母」というものについて見直すべきではないかと考え、微力ではあるが無力ではないと信じ、キーボードに向かった次第である。

皆さんは「母」と聞いて、どのような人を想像するだろうか。自身の生みの親、配偶者などを想像するかもしれない。この母や妻のあり方は実に多様である。価値観、思考回路、行動特性、健康状態、働いているかどうか、働いているとしたら雇用形態、勤務先、職種など実に多様である。生みの親なのか、法律上の親なのか。関係性はいいのか。そもそも、存命なのか。

「母」と「妻」は違う。子供がいない家庭においても妻に母性を感じることがあるが。母の日というのは、子供が欲しいと思っていても授かることができなかった人にとっては、残酷なイベントなのだ。

「毒親」と呼ばれる人もいる。古谷経衡同志が『毒親と絶縁する』(集英社新書)という本をリリースし、議論が巻き起こったが。必ずしもこの日に「母」と聞いて良い想いをしない人もいるのだ。

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世の中には「非道い親」という人がいる。大学の同級生であり、大企業勤務などの経験を経て、児童養護施設で働く道を選んだテイコさんにすすめられて見た、「ひとくず」という映画では児童虐待が描かれていた。子供にお湯をかける親がいる。アイロンを押し付ける親がいる。部屋や車に子供を置き去りにする親がいる。

「母の日です。お母さんに感謝しましょう」というメッセージに傷ついている人もいることを意識したい。バレンタインデー、ホワイトデー同様、欺瞞性、瞞着性に満ちたイベントに成り下がっていないか。カーネーションを渡すことですべては解決されるのだろうか。

家族も、母も多様になっていることを意識したい。感謝するべきことは何なのか。昔、出席した結婚式では「母への手紙」で「いつも美味しいごはんをありがとう」と新婦が号泣する場面を何度か見た。2000年代前半の光景だ。このテンプレ化された母親の家事への感謝という光景も押し付けである。

そもそも、母親像は常に「偽装」される。「おふくろの味」などがそうだ。母から母へ伝承されたというのは、よっぽどの良妻賢母教育が行き届きすぎた家庭であって、実際は料理雑誌や料理番組から複製されている。駅弁でよくある「おふくろの味弁当」が完全に「偽装」であるのと一緒である。だいたい、中高生の頃、必ず鮭の塩焼きと、きんぴらごぼうが入った弁当を食べていた人などいるだろうか。

母たちは闘っている。「テレワークでワークライフバランス実現」というようなユートピア的なものではなく。常にビデオ会議やスラックで追われつつ、現状の育児の実態を反映していない会社や社会、身近なところでは保育園のルールに追われているのが日本の母である。そんな「凄母」前提で語る記事に疲れている人もいる。

今朝も全国紙には男性育休や育児への関わりをめぐる社説が掲載されていた。まだまだという状況だが、とはいえ、家事・育児をこなす男性も増えている。

父も母も多様化している。家庭のあり方も多様だ。それを「お母さん、ありがとう」という像の押し付けで語るのは、なかなか無理がある。

というわけで、母の日という存在が誰かを苦しめているかもしれないことを認識したいし、母や家庭のあり方も多様化していることを認識しておきたい。ビジネスの論理にてごめにされたカーネーションに騙されてはいけない。

そんな我が家の母の日は「特に何もしない」ということが家族会議で決まった。いや、妻には感謝の言葉を。札幌の母にはLINEを。カーネーションなどの贈り物はしない。特にウチの妻はその手のことを嫌う人で。いつもどおり、料理は全部、私が(ただ、最近は母と子の学びの場ということで、二人で料理する機会も意識的に)。

私には、親子喧嘩も夫婦喧嘩もない。私が一方的に叱られ、ダメ出しをされ「すみません、すみません」と謝罪するのみである。今日もいつもどおりにみんなで過ごす幸せを味わいつつ。母にも妻にも心から感謝している。

母親像、母との関係の押し付けに屈せず。母や家族のあり方について考えつつ。母像、家族像の押し付けに死を。闘いの爆発、前進を勝ち取れ。


編集部より:この記事は千葉商科大学准教授、常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2021年5月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。