コロナ禍におけるジェネラリストの意義

森田 洋之

sakai000/iStock

在宅医療を提供している患者さんが80歳を超えた。

そもそも障害のある方だったうえに、高齢になるに従い徐々に体力と移動能力の衰えが目立つようになり…結果として一人ぐらしが困難になった。特に台所で立位を保持するのが大変なようだ。転倒の危険もかなり高い。これでは手も洗えない。いよいよ施設入所しかないか…と考える。でも本人は家に居たい。施設には行きたくない。さあ、どうする??

在宅医療などの地域医療に従事していると、こうした事例に日常的に遭遇する。

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実はこの方、拙著「うらやましい孤独死」の表紙を飾ってくれた方だ。幼少期から小児麻痺があり、言葉もうまく出ない。それでもこれまで独居を継続できたのは、在宅介護や通所介護がしっかり対応してくれていたからだろう。いや介護があるからというのはやや語弊がある。なぜなら介護側から見れば在宅生活にもまして施設に入所してもらって見守りの中で生活してくれたほうが安心なのだから。それにも関わらず彼女が在宅生活を継続できたのは、病気や障害だけに注目するのではなく、彼女の生活や人生全般にとって何がいい選択なのかを考えてくれてそこに向かってくれる総合的な(ジェネラルな)視野を持った介護スタッフがいたからだろう。

このことは、新型コロナについても同じことが言えるのではないだろうか。

たしかに新型コロナウイルス感染症という「病気」に注目すれば徹底した感染対策や面会・接触の制限が必要だろう。しかしそうした「病気」を診て治療する視点に傾倒していった結果、医療は多くの高齢者を「寝たきりで人工栄養を受けての延命治療」という状況へ導いていった。在宅医療などの生活に寄り添う総合的な(ジェネラルな)医療が普及し、日本でも在宅死や老衰死が増加してきた背景には、そうした「病気を診る医療」へのアンチテーゼという側面もあったのだ。

しかし、このコロナ禍で流れは一気に逆戻りだ。いま高齢者施設や病院などで高齢者は家族にも会えず外出もできず、カゴの鳥のような状況に陥っている。感染対策という専門性の正義の前にはなすすべもないのだ。

一方、私が所属する在宅医療のメーリングリストでは、患者さん個人を総合的に診るという視点にとどまらず社会全体を見るジェネラリストとしての医師の意見が多く寄せられている。その中では、今回の新型コロナウイルスに対して社会全体が活動を停止してしまったことは、メリットにもましてデメリットのほうが大きかったのではないか、という意見も多い。ある医師限定サイトのアンケートでは、こうした意見への賛成票のほうが多かったこともある。

医師業界には「他の専門分野には決して口を出さない」という不文律があるため、なかなかこうした医師の意見は表に出ない。結果、世間の流れはどうしてもその分野の専門家の意見に傾きがちだ。もちろんスペシャリストが提供してくれる専門医療の領域は尊く貴重なものである。しかしそうしたスペシャリストの医療とは別に、総合的な視点で、病気だけでなく人生や生活を支えてくれ、更には社会全体を俯瞰できるこうしたジェネラリストの意見にも、社会は耳を傾ける必要があるのかもしれない。

さて、冒頭の患者さんはどうなったのであろうか。昨日ご自宅に伺ったところ、何やら工事が始まっていた。なんと、在宅介護スタッフが自宅のキッチンの改装をボランティアで行っていたのだ。彼女が座ったままで水仕事ができるように、と。

筆者撮影

まさに脱帽である。人生や生活を総合的に支えるジェネラルの真髄を垣間見たような気がした。こんな介護に支えられていたからこそ彼女はこれまで自宅独居ができたのだろうし、もしかしたら最期まで自宅で生活ができるのかもしれない。施設でカゴの鳥になってしまうことが彼女の願いではないのだから。