公共/商業/国営メディア

ここまでは、民主主義国家における国民は、治者としての市民と被治者としての住民という二つの立場を持っていて、市民の代表である政府を監視する住民の代理人がメディアであることを説明しました。ここでは、メディアの3つの形態である公共メディア・商業メディア・国営メディアの役割と主要な問題点を指摘したいと思います。

日本の公共メディア

日本放送協会 NHKは、日本の【公共メディア public media】であり、住民が支払う受信料によって運営されています。NHKは、その名称にもあるように、元々は【公共放送 public broadcasting】を名乗ってきましたが、現在では「放送」にインターネット等の「通信」を融合させた「公共メディア」を名乗っています。

NHKの存在の理念は、住民からの受信料収入により、情報発信の自主自律・公平公正・不偏不党を貫くことが可能となり、「健全な民主主義の発達」や「公共の福祉」に寄与するというものです。しかしながら、その運営体制には二つの致命的な欠陥が存在しています。

一つは、NHKが放送法に基づく特殊法人であり、予算や経営委員の人事が衆参両議院で承認されることです。NHKの監視対象である市民の代表がNHKの運営に関与していることは、その監視を畏縮させる可能性があります。

もう一つは、代理人の依頼主である住民が、代理人のNHKを管理・監督する手段がなく、市民の代表を勝手に監視させていることです。NHKは、政府からの干渉を受けるべきではありませんが、同時に住民からの干渉も受けなければ、モラル・ハザードやレント・シーキングお構いなしの無敵の【第四の権力 fourth power】となり、莫大な資金と放送インフラを自由に使って大衆操作することで政治的に暴走することも可能になります。

実際に近年、NHKの事業運営に対しては多くの批判があり、職員の極めて高い給与水準と福利厚生、委託業者丸投げ体質とコスト意識の欠如、高い内部留保と放漫財政等が問題視されています。すなわち、住民の受信料で成立する公益事業を担っているはずのNHKが、必要以上の運営費を住民から徴収し、競合のない閉じた営利集団として国家に君臨している可能性があるのです。

さらに深刻なのは、市民の代表による干渉が既にタブー視されている番組制作部門であり、制作者の暴走事例がしばしば報告されています。例えば、戦時慰安婦をテーマにした『ETV2001 問われる戦時性暴力』や軍艦島をテーマにした『緑なき島』といった報道番組の内容に対して代理人の依頼主である住民の多くが疑義を表明していますが、代理人であるNHKは一方的に疑義を否定するだけで、住民と議論する姿勢を見せません。また、国際放送のNHKワールドが福島第一原発から海洋放出される予定のALPS処理水を “radioactive wastewater(放射性の排水)” とする風評を全世界に発信しても、住民がNHKに責任を問う手段はありません。NHKは既に番組制作面では無敵であり、何の効力もない批判さえ覚悟すればいくらでも暴走が可能なのです。

NHKの運営を本来監督・管理しなければならないのは住民です。NHKの事業運営に関しては、住民本位の独立規制機関もしくは会計検査院のような内閣から独立した中立的行政機関が監督・管理するのが論理的です。また報道内容に関しては、住民の意見を十分に反映することができる独立規制機関が監視するのが論理的です。このような規制機関の制度設計はけっして簡単ではないと推察されますが、改革を前進させない限り、不利益を被り続けるのは住民に他なりません。

なお、NHKが住民から聴取する受信料によって運営されている以上、受信料の適正化は必要不可欠です。住民の価値観が多様化する中で、商業放送でも代替可能な教育・教養・娯楽などの公益性が低いコンテンツまで強制的に課金されてしまう現在のシステムは、インターネット経由でオンデマンドの有料情報サービスを購入する現代の常識から完全に乖離しています。少なくとも、コンテンツを公共放送部門(報道)と非公共放送部門(教育・教養・娯楽)に分離した上で、前者についてのみ受信料を強制的に課金し、後者についてはスクランブルあるいはペイ・パー・ビューなどによってオンデマンドで課金するシステムを構築することが必要不可欠です。

また、受信料の負担先についても改革が必要です。公共メディアが住民の代理人であることを考えれば、公共メディアの受益者は、受信設備を持つ視聴者ではなく住民です。公共メディアが社会のインフラとして公共の福祉に正しく貢献する限りにおいて、公共メディアの受益者である各個人が、その視聴の有無に拘わらず、等しく公共メディアを支えるのが論理的です。受信設備が多様化する中で、世帯毎に受信料を支払う現在の曖昧な徴収方法は、不公正で不公平な存在である【フリーライダー free rider】を生む元凶となっています。なお、宿泊施設などにおける公共メディアの商業利用については、受信機台数に応じて相応の課金が必要となるのは当然です。商業活動の受益者は顧客であり住民ではないからです。

さらに言えば、住民にとってバイタルである公共メディアは、単なる「公共メディア」の事業者ではなく、警察や消防と同様に【公共サービス public service】として放送事業を行う【公共サービスメディア public service media (PSM)】の事業者である必要があります。例えば、警察や消防は国民にサービスをしてくれますが、その個別のサービスに対して対価を支払う必要はありません。既に税金として支払っているからです。公共サービスメディアとは、このシステムと同様に、国民が予め決められた額の受信料を支払うことで、各個人が無制限に公共サービスメディアを受信できるシステムです。ちなみに英国BBCは、既に公共サービスとしての事業を実践しています。

日本の商業メディア

日本では、基本的にNHKを除くメディアは民間企業が経営する【commercial media 商業メディア】であり、住民から得られる情報提供料、および住民が運営する企業から得られる広告料を主たる収入源として企業を経営しています。基本的に、【新聞 the press】【雑誌 journal】は情報提供料としての購読料と広告料、【テレビ TV】【ラジオ radio】は広告料、【インターネット internet】は購読料(有料サービスの場合)と広告料を主たる収入源としています。商業メディアにとって情報提供者や広告主は顧客であり、顧客からの収入獲得が行動原理の一つとなります。

このような収益環境の下、商業メディアは住民に対して政治の監視の代理を勝手に申し出る任意の代理人です。商業メディアは、当然のことながら、報道において【言論の自由 freedom of speech】を行使する【報道の自由 freedom of the media】を持っています。その一方、報道基準等で公平な報道を宣言していなければ【偏向報道 biased coverage】を行うことも自由です。

新聞の【社説 editorial】は、民間企業である新聞社が【公論機関 organ of public opinion】という名の下に自社の公式な【主張 assertion】を述べる記事です。社説の執筆には論説委員があたりますが、その内容は必ずしも【言論 argument】によって導かれた論理的な【言説 statement】とは限らず、【反証可能性 falsifiability】が欠如した個人的な【認識 cognition】【論証 reasoning】が欠如した【命令 order】を振りかざしただけの単なる【文 sentence】に過ぎないことも少なくありません(「言論」「言説」「命題」「主張」「文」といった用語の意味については別記事で詳しく説明します)。このような実状は、論説委員の論理的スキルの欠如の表れであり、日本のジャーナリズムの程度の低さを示す残念な証左です。

一方、住民が自由に電波を使う権利を制限することで確保される特定の周波数帯の電波を独占利用してテレビ・ラジオの放送事業を展開する【放送メディア broadcaster】は、放送法4条によって「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」といった番組編集の制約が課されています。しかしながら、放送メディアは、この放送法4条を単なる「努力義務」とする住民無視の解釈を掲げ、しばしば公益を害するような自分本位の偏向報道を行っています。

商業メディアは、任意の存在であるため、報道の自由とともに【報道しない自由 freedom not to report】をも行使します。この住民の【知る権利 right of access】に挑戦するメディアの自由権の行使こそ、この世界に発生した森羅万象の一部を確信的に【つまみ食い cherry picking】した偏向報道を許容する言い訳となっています。特にあからさまな偏向報道を行っているのが、録画でもしない限り記録が残らないテレビです。番組制作者の論調に対して都合の良い情報は強調して放送され、都合の悪い情報はまったく触れられないというのは日常茶飯事です。

また、第三者を偽ってメディアの論調に対して都合の良いコメントを乱発する一方で、都合の悪いコメントをけっしてしない【御用コメンテーター spin doctor】の存在も偏向報道の原動力となっています。高視聴率の情報番組であるTBSテレビ『サンデーモーニング』はその最たる例であり、特定の結論に誘導するよう制作された説明VTRを事前に流した上で、恣意的に選ばれた一方向の論調を持つ5人のコメンテーターが異論の存在など指摘することもなく反証不可能な認識の吐露に終始して画一的な結論を導きます。コメンテーターの一人が事実に反するデマを流してもまったく異を唱えることはなく番組が進行する状況は異常であり、番組の主たる視聴者で日本の大票田でもある高齢層に大きな影響を与え続けています。

テレビ番組の偏向報道、特に【受動型メディア passive media】(図-1参照)の典型であるワイドショーの偏向報道は、受動型メディアしか利用することなく容易に大衆操作可能な「デジタル・デバイド」と呼ばれる住民層を特定の方向に誘導することによって「世論」を形成するものであり、民主主義に対する傲慢な挑戦に他なりません。民主党政権・反原発・反安保法案・小池劇場・モリカケ・ゼロコロナなど、論理を欠いた大衆操作のエピセンターはいずれもワイドショーであり、第四の権力の中枢となっています。住民は真剣に問題の深刻さを認識すべきです。

図-1 受動型メディアと能動型メディアの概念図

なお、近年では、インターネットのポータルサイトも受動型メディアの典型と言えます。コロナ禍においては、トップページのニュースのヘッダに、まるでこの世の終わりであるかのようなセンセーショナルなタイトルのコロナ悲観記事が連日躍り続けました。その多くは、過激なSNSの投稿やワイドショーの司会者の発言をそのままタイトルにしたスポーツ新聞の記事です。このような科学的根拠が欠如した素人の認識に報道価値は全くありませんが、そんなことなどお構いなしにスポーツ紙は恐怖を煽り続けました。実際、記事のコメント欄には、パニックに陥った大衆が投稿した科学的根拠がない風評や悲観論や陰謀論が大量に飛び交いました。このような【イエロー・ジャーナリズム yellow journalism】が日本に【インフォデミック infodemic】を蔓延させ、コロナ死者数が非常に少ないにもかかわらず、米国に次ぎ世界第二位のコロナ対策費を拠出する原因となったことは自明です。このことからもわかるように、少なくとも一部の商業メディアの行動原理は、社会正義よりも商売繁盛なのです。

日本の国営メディア

【国営メディア state media】とは、政府によって運営されているメディアのことであり、実は日本にも存在します。それは政府広報オンラインというインターネットサイトです。但し、ページビューは日本国民の数人に1人が年に1回アクセスするくらいの規模であり、受動型メディアだけを利用する大衆や、能動型メディアを利用する術のない情報弱者がこのサイトにたどり着く可能性は殆どありません。一方、能動的に情報を獲得するネットユーザーがこのサイトにたどり着く可能性はありますが、サイトのコンテンツ自体が政策を精緻に伝える性格のものではなく、住民の暮らしの疑問に答えるような緩いサイトであるため、リピーターとなる可能性は低いものと考えられます。つまり現状では、あまねく住民に対して政府の政策を広報することが可能な受動型国営メディアは存在しないということです。

政府の広報機関である国営メディアは、当然のことながら権力者の【プロパガンダ propaganda】に悪用される可能性があります。最悪の場合には、市民の代表によって市民が大衆操作されることにより、市民の代表が【独裁者 dictator】として権力を掌握し、錯覚した住民がその独裁者に同意を与えてしまうというシナリオも考えられます。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)のアドルフ・ヒトラーは徹底したプロパガンダで市民から個人崇拝され、民主主義体制下で独裁者として君臨することに成功しました。独裁政治は、【指導者民主主義 leader democracy】という名の下に民主主義体制下で成立可能なのです。ドイツ住民は第二次大戦後に戦争責任をナチスに転嫁しましたが、ナチスを国家の代表として選出したのはドイツ住民の別人格であるドイツ市民に他なりません。このような独裁政治を阻止するためには、治者である市民が、自分は被治者である住民であることを最認識して自己を問い直すしか方法はありません。

一方、現在の日本のように、公共メディアと商業メディアが、報道しない自由を濫用して、政府の見解をほとんど住民に伝えないような状況も極めて問題があります。例えば、2015年の安保法制の議論の際には、メディアは政府の主張をほとんど報じることなく、一方的に安保法制反対の勢力に与した偏向報道を続けました。また、豊洲市場汚染の風評や福島第一原発処理水の風評について、マスメディアはほとんど風評を否定することなく、一方的に風評被害が生じるとする【ブラック・プロパガンダ black propaganda】を続けました。これらは明らかに政府の見解を詳細に広報する国営メディアが日本に存在しないことを悪用したものです。

例えば、原発処理水の風評など、NHK『ニュース7』の冒頭に毎日10秒「福島原発の処理水は科学的に安全です。風評を撲滅しましょう」と広報し続ければ、すぐに払拭できるはずです。また、メディアや野党がことあるごとに叫ぶ「政府は説明が足らない」という主張の根本的原因は、メディアが政府の説明を十分に報じないことによります。日本のメディアが政府の政策に対して確信的に行使する「報道しない自由」は、住民にとって大きな不利益を及ぼします。このようなメディアによる情報操作が続く限り、政府は、オンデマンドで公共メディアの放送枠を買い取るなどして、受動的メディアで政策説明を行う必要性があります。

重要なことは、住民を阻害する極めて不健全な状況を創っているのは、住民の代理人であるメディア自身であるということです。このようなメディアの行動は、「政権の監視」という手段が目的となって本来の目的である「政治の適正な運営」を阻害する【自己目的化 activity trap】そのものであり、まさに本末転倒と言えます。

以上の問題点を踏まえつつ、次回はメディアの暴走事例をいくつか紹介し、民主主義国家における国民・政府・メディアの関係を再確認したいと思います。

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公式サイト:藤原かずえのメディア・リテラシー