沖縄を中国に横取りさせなかった先人の戦い(戦後①)

沖縄は日本と中国のあいだに位置する国ではない。なにしろ、中国から沖縄に東シナ海横断航路しか室町時代までは航路などなく、漂流船があっただけだからだ。室町時代以降も福建省から島伝いの航路しかなかった。

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沖縄の住民のほとんどは、南九州から移住した縄文人的要素が強い、つまり、中国人と日本でいちばん縁遠い存在なのだ。

しかし、そうはいっても、長い歴史のなかにあって、中国の魔の手が伸びたことはある。そのあたりの長い歴史は、「日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)のテーマでもあるのだが、本日は、第二次世界大戦終戦からサンフランシスコ講和条約までの動きを紹介したい。

戦後、沖縄が27年の米軍統治のあと日本に戻れたのにはいくつかの幸運があった。沖縄についてアメリカのルーズベルト大統領は、蒋介石に日本への領土要求はないかとカイロで打診した。沖縄を欲しければ認めてもよいというシグナルだった。

中国政府にも中国領にしようという意見もあったのだが、蒋介石は、独立運動もないし、満州や内外蒙古の独立阻止や台湾返還主張にマイナスだと考え要求しなかった。

外蒙古にはソ連の傀儡国家が成立していたし(いまのモンゴルは立派な独立国家ですが最初は傀儡国家であった)、内蒙古にその版図を広げようとする可能性があった。満州についても、ソ連の食指が伸びてきていた。

五族共和(漢満蒙回蔵)の多民族国家を自負する中国は、民族自決の原則に基づいて大清帝国から譲られた領土を譲れないと考えていたので、日本民族の住む沖縄を自分のものにすると、民族自決の旗を自ら降ろすことになってしまうことを心配したのだ。

ただし、日本に帰属させるのかと言えば、それは、別途話し合いましょうという立場で、信託統治や非武装化も模索していた。

しかし、国民党は共産党に追われて台湾へ移ったので幸運にもすべてがうやむやになったのであった。そして、北京も台北も呼ばれなかったサンフランシスコ講和条約でアメリカ軍単独の施政権下に置かれることとなった。

この経緯について、沖縄を見捨て平和条約を結んだことが非難されることが多い。たしかに、そうせざるを得なかったのは沖縄の人々に申し訳ないことであったが、現実的な判断としては、もし蒋介石がおわれずに、中国政府として条約交渉に加わっていたとしたら、沖縄の日本への帰属について容易に同意しなかった可能性が強かっただろう。

このことは、昭和天皇が、米軍が沖縄で駐留を長期間継続することを希望されたと言われることも肯定的に見るべき根拠でもある。

1947年9月に天皇の御用掛であった外交官・寺崎英成が、GHQ政治顧問シーボルトの事務所を訪れ、ワシントンにあったマッカーサー元帥にその内容を伝えてもらうように依頼したものが、アメリカの公文書公開で明らかになり、革新派からは批判された。

昭和天皇は、「アメリカ軍による占領は、米国にとっても有益であり、日本にも防護をもたらすことになるだろう」とし、沖縄の占領が日本の主権は残した状態で四半世紀から半世紀あるいはそれ以上の期間の租借の形態に基づくものにしてはどうかと言われた。

それは、日本人にアメリカが琉球列島に関して恒久的な意図が無いことを理解させ、他の国、例えば、ソ連や中国が同様な権利を要求することを止めさせることになるだろうと言っている。

また、寺崎は沖縄における軍事基地の権利獲得については、日本と連合国との講和条約の一部とするよりも、日米間の二国間の条約によるべきだという考えを示した(この部分が天皇の意向を反映したものかは不明である)。

これをもって昭和天皇が沖縄を見捨てたという人もいるが、すんなりと沖縄が日本に戻ってくるというわけにはいかない状況のもとでは、賢明な現実的判断だったと考えられるし、そのことの正しさは沖縄の本土復帰で立証されたのだと思われる。

ただし、沖縄の人をしばらく米軍施政権下において辛い思いをさせたことに違いはなく、ヤマトの人間が、沖縄の人々への深甚なるお詫びと感謝の気持ちを持たねばならないのはいうまでもない。

もっと詳しい経緯と内幕、そして台湾と沖縄の関係については、私のメルマガで紹介している。