時間は過ぎるものではなく、使って消費するものである

黒坂岳央(くろさか たけを)です。

筆者は「時間」ほど、人によって認識の違いが出るものはないと思っている。

同じ余暇でも、過ごし方は人によってあまりにも違うし、人生のタイミングによって、時間に対する感覚は大きく異なることも起こりえる。誰しも若い時間は永遠に続くように感じるもので、時間の価値の大きさを忘れがちだ。しかし、たとえば余命宣告をされることがあるなら、その瞬間から世界は一変することは間違いない。毎秒、秒針の刻む音すらハッキリと聞こえる、そんな強く時間を意識する世界へと身をおいていることを認識するだろう。

STILLFX/iStock

本稿で取り上げる「時間は過ぎるものではなく、使って消費するもの」という言葉の出典元は不明だ(調べたが見つけられなかった)。だが、時間の本質について、スッキリ言語化されていることには嬉しさを感じたので取り上げたい。

「時は金なり」と「time is money」は意味が違う

英語圏にはtime is moneyという言葉がある。意味はそのまま「時は金なり」と訳され、「時間とお金は等価値」という認識が一般的である。だが、厳密には「time is money」と「時は金なり」という言葉に与えられた意味合いは異なるとされる。

時は金なりとは、「時間はお金と同じ価値あるものなので、無為に過ごさず大事に過ごしなさい」という我が国の格言だ。その一方、time is moneyはアメリカ合衆国建国の父である、ベンジャミン・フランクリンの言葉とされる。そして後者には「機会損失(opportunity cost)」というニュアンスが込められているのだ。

機会損失とは経済学で使われる用語で、「Aを取るとBはできない。何かをすれば他の得られるはずの機会を失うこと」と定義される。たとえば、学生時代にアルバイトばかりして過ごせば、資金的余裕が生まれるメリットが生まれる。他方において、勉学に励む時間は失われる。アルバイトをしていた時間を勉強に充てていれば、卒業時のスキルアップで就活で有利に働いたかもしれない機会を逃してしまうということだ(ただし、近年においては大学生のアルバイトは、遊ぶためではなく学費捻出の意味合いが強い。アルバイトは大学卒業には必須コストという位置づけの変化に世知辛さを感じる)。

時は金なりもtime is moneyも、それぞれ時間に対する異なるアプローチだが、両方正しい。

「時間は使うもの」という感覚を持っているか

筆者はtime is moneyには経営学的な色彩を帯びていると感じる。すなわち、人は自分の人生の経営者であり、時間という経営資源を、自分にとって価値のあるものへ優先的にアロケーション(配分)していくという考えだ。

筆者は起業して「時間」に対する考えが一変したと感じた。「時間は過ぎるもの」という認識から「時間は意識して使うもの」というものへと変わったのである。悪く言えばケチになり、よく言えば大事に使うようになったのだ。

会社員の頃は「時間は過ぎるもので、使うもの」という認識があまりなかった。社内で多少ムダな時間を過ごしても、それほど気にすることはなかったのである。一日をどう過ごしても、もらえる給与は変わらない。つまるところ、1日が終わるまでに、会社から与えられたタスクをこなせば良いからである。恵まれていたことに勤務先は比較的温情的な会社だった。「今日の仕事は余裕だ」と思った日は同僚と談笑しながら、のんびりと過ごして終わらせる事もあった。

だが、起業するとこの考えは一変した。時間が経営資源という位置づけになったからだ。手元に1時間あるなら、この1時間をどう有効活用するか?ということに始終頭を使うようになった。それはある程度、会社のビジネスが軌道に乗った後も変わらない。漫然と漫画を読んで過ごしてしまうと、代わりに仕事が進まない。今でも日々、時間の過ごし方は常に考えるようになった。

ビジネスを効率的に進めたい、という時間効率性の観点はもちろんある。だが、その先にあるものも見据えている。すなわち、それは「時間を有効に活用することで、満足の行く人生を過ごすことができる」というものである。

「時間は使うもの」で死ぬ前に後悔しないで済む

「人が死ぬ前に後悔すること」には多少の違いはあれど、どの国においてもおおよそ似通った結果になるのだという。その中に「やりたいことをできる時にしておけばよかった」と嘆くことは、その筆頭と言える。「やりたいことをすればよかった」という後悔を回避するためには「時間は使うもの」という意識で取り組むことが肝要だと思っている。

人生のその時々の「やりたいこと」はタイミングを逃すと、二度とできなくなることは少なくない。「老後、ありあまる時間を得たら長編小説を楽しもう」と思っていても、いざ老眼になると本を読めずに愕然としてしまう話、登山をしたくても足腰が痛くてできないという話はこれまで何度も聞いてきた。また、「忙しい仕事が落ち着いたら、子供と旅行へいこう」などと思いながら、日々の仕事に忙殺されて先送りにしてしまう。その結果、もはや子供が大きく成長して親離れしてしまい、旅行など望むべくもないという話もある。

これらはすべて「時間は過ぎ去るもの」という認識に裏打ちされた結果と感じる。「時間がすぎれば現況の課題は自然解消される。そうなれば今できないことをする機会が訪れるだろう」という受け身の発想だ。だが、この発想こそが命取りになる。目の前の課題は時の経過で自然解消されても、やりたいことは「時間を使って、意識的に行動する」という能動的なアクションでしか実現しないからである。

筆者はやりたいことがあるなら、時間を使ってやりたい内にすぐ実現させるべきだと思うのだ。長編小説をいつか読みたいと思うなら、読みたい意欲が潰える前に時間を工面してでもすぐ読んだ方がいい。登山をしたいなら、体が悪くなる前に他の休日の活動を止めてでも、すぐに山に登りに行くべきと考える。子供と旅行へいくなら子供が成長してしまうその前に、会社や友人との飲み会をキャンセルしてでも次の休日にすぐ出かけるべきである。

時間は所与として、すべての人に与えられている平等な資源だ。過ぎ去っていく時に身を委ねるのか?それとも活用すべき人生の経営資源という対象と捉えて、意欲的に取り組むのか?その意識の差によって、人生の充実度は変わってくるのではないだろうか。

 

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。