〜 ICT、ギガスクール、PBL、生きる力、、、何が最も本質か 〜
1.ドラゴン桜現象 ~なぜヒットしているのか/なぜ私が共感を覚えるのか~
「バカとブスこそ、東大に行け!」叫び、コンプライアンスはどこ吹く風。時に生徒の胸ぐらを掴んだりもしつつ、本音で吠える桜木弁護士の勢いが止まらない。日曜夜のTBSドラマ『ドラゴン桜』は、2021年春放送中のドラマの中で、NHK大河ドラマ『青天を衝け』には及ばないが、平均視聴率で約1%強差の約14%を叩き出し、無類の強さを発揮している。5月30日放送の第6話は、前回の視聴率13%台から14%台に戻したそうだ。
私としても、日曜の夜は、すっかり8時から『青天を衝け』を見て渋沢栄一の青春に感動し、9時から『ドラゴン桜』で桜木弁護士に共感する、という流れが出来てしまった。一緒に見る子供たちを早く寝かせたい妻泣かせな、いけない夫となってしまっている。(余談だが、その後の10時半からの『ネメシス』は、1~2話は見たが、その後は見る気になれない。したがって、極端に遅くなるほどの迷惑はかけていない、というくだらない抗弁だけはしておこう。)
さて、落ちこぼれとも言うべき生徒たちを中心に、三流学校から東大へと鼓舞する桜木の主張は明快で、私なりに単純にまとめると以下の3点である。
① 東大卒など高学歴人材は、身分や学歴で人を見る嫌な人間が多い。ただ、その連中が、官僚などとして、或いは最近は特にエリートビジネスマンなどとして、世の中のルール・掟を陰に陽に作っているのが現実。
② 「バカ」はルール作る側に良いように利用されて、搾取されるだけになる。その結果、色々と辛い思いをすることが多い。個人として負の連鎖から脱したければ、また、より大きく社会を変えたければ、ルールを作る側に回れ。
③ 東大に入れば、とても分かりやすくルールを作る側に入りやすくなる。少なくともルールを振りかざす側とまともに戦える武器を得られる。また、受験というのは、実は人生最初で最後とも言うべき「かなり公平な競争」であり、きちんと戦えば勝てる。
それで、「バカとブスこそ、東大に行け!」となるわけである。
後述するように、偏差値の高くない学校から、一種ドラゴン桜的に東大文一に入った私の実感としても(文系としては、学校創立約15年にして初)、正直、かなり首肯できる部分が多い。①は、自分のことを棚に上げて言えば、かなり身分や肩書にこだわる人種が多く、特に最近は、官僚などの政治・行政の力が弱っているので行き場としてはエリートビジネスマンに流れつつある。そんな中、②についても、具体的には、ファンドやコンサルタントなどに行き、競争や金の亡者となって、結果的には、弱者から意識・無意識的に極度に吸い取る側に回っている者が多い。最近は、スタートアップ系にも「勝ち組」目指して集まるエリートが増えている印象だ。③もその通りだと感じる。苦労はするが、今は特に教材(動画)その他の受験のための道具が安価に手に入る。そして、競争の「公平感」が強いがゆえに、勝利したことに優越感を感じやすくなり(本当の実力で勝ったという錯覚)、せっかく得た既得権益にしがみつこうとする傾向が強くなる気がする。
今回の主たるテーマではないので深堀りはしないが、特に、この勝利感や優越感から来る、搾取と被搾取の「日本(や地球)という閉鎖空間」でのどうしようもないエコーチェンバー的拡大、いわゆる格差問題は、今後、益々ひどくなることが予想される。
例えば、資本主義を真正面から「ぶった切って」いて話題の書となり、何と最近、発売部数が30万部を突破した斉藤幸平氏の『人新世の「資本論」』は、是非ご一読をお勧めしたい名著であるが、このあたりを活写している。同書では、マルクスの主張の後世の「誤読」を、新たな研究成果も踏まえて正しつつ、原点に帰って資本主義の純化がもたらす悲劇的方向性と、それを現代において正すことの難しさが巧みに描かれている。
なお、同書の終盤では、資本主義を一種根本的に否定するような、しかし、実は成長を否定するでもない(と読める)前向きな動き、即ち、具体的な地域コミュニティの再生事例などが書かれている。いわば小国寡民モデルとも言うべき明るい未来への兆しを感じさせなくもない「締め」となっているが、斉藤氏が寄せる期待とは裏腹に、実態としては、かなり厳しい、絶望的とも言える闘いであろう。
まさにマルクスが喝破した通り、あたかも「歴史は、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として繰り返す」を地で行くかのように、資本主義の進展は、世界を大きく分裂させる強烈な戦いやカタストロフィとも呼ぶべき事態をどこかで呼び起こすのではないかと感じている次第である。
大分脱線してしまったが、この辺りはいずれ別の機会に詳述するので話を戻す。要するに、世界の分極化は、搾取側・被搾取側の分断を中心に今後激化することが予想され、その中で、自分が負けないために、或いは、社会を変えるべく話を聞いてもらうために、「まずは東大に行く」というのは、せめてもの現実的選択肢に見えるわけである。
ドラマ中では、現在のところ明言はされていないが、こうした状況下、桜木自身も、東大に受かったという実績だけは持ちながら、東大には通わず、独自で弁護士資格を取得し、斜めに構えつつも、現場からの改革・革命を密かに願い、実践する存在として示唆されている。「ヴ・ナロード」ではないが、元暴走族という設定でもある桜木弁護士は、もう少し野太い形で人民の中に入って行く闘士にも見える。
彼ほどの太さはないが、私もまた、ささやかながら、体制側の「切符」を一度は手にしつつも、そちらからは半自主的にドロップアウトして、現場からの改革を目指している。体制側の内部からではなく、現場からという指向性に関して、桜木に共感を覚えてしまうのも我ながら仕方がないと勝手に思いつつ、毎週楽しみにドラマを見ている。
さて、放っておくとまた脱線してしまうので本論に戻る。つまり、この『ドラゴン桜』は、一般社会から見た世相という意味でも、また表面的には、珍しく「東大肯定」とも見えなくもない姿が、逆にエリート側から見た眺めとしても(私のような半自主的ドロップアウト組はなおさら)、後知恵的には、ヒットする要素満載と言えるわけだ。が、ちょっと待ってほしい。
ではなぜ、今までこうしたタイプの学園ドラマがなかったのだろうか。
2.異色の学園ドラマ? ~ エリート側・管理側に寄ったTVドラマという不思議 ~
私は、テレビドラマの専門家でもなければ、もちろん、テレビ局や脚本家などの制作側にいたわけでもない。が、過去、それなりにドラマを見て来た人間だと多少の自負はしている。乱暴に言って、「学園ドラマ」というカテゴリーで、大きくヒットしてきたものは、主に以下の3つになるのではないだろうか。そして、『ドラゴン桜』はそのいずれの類型にも当てはまらないと思えることが、自分の中の不思議な感覚を呼び覚ましている。
① やや古い類型だが、『3年B組金八先生』や『熱中時代』などの、先生が生徒に、分かりやすくしっかりと寄り添うタイプのドラマ
② 『スクールウォーズ』や『ROOKIES』などのように、不良たちにスポーツという目標を持たせる形で熱血教師が頑張るタイプのドラマ
③ 『GTO』や『ごくせん』(あと、大ヒットと言って良いかは微妙かもしれないが、個人的に好きだった『伝説の教師』)のように、風変わりな先生が既存の学校で旋風を巻き起こすタイプのドラマ
『ドラゴン桜』は、一見、③の類型だが、その実、(1)エリート側の世界(東大)に行くことを肯定的に捉えていること、また、(2)学園系のドラマの鉄則とも言える、「自由意志の尊重」「個性の重視」という面から見ると、かなり異例だが、東大に合格するという目的のための我慢(「管理」への結果としての自主的な移行)の双方の肯定をしていることの2点において、GTOやごくせんとはかなり違う印象だ。特にメディアや文化人の世界では、反体制・反管理型の指向性を隠そうとしない方が多いが、この(1)と(2)を両方とも肯定するパターンが、TVドラマで実現するのは、これまでの常識から考えると極めて珍しいのではないだろうか。
例えば、少し前からバラエティや情報番組の世界で引っ張りだこになっているのが、毒舌・本音トークを旨とする坂上忍氏であるが、氏の俳優としての出世作は、『中卒・東大一直線』(副題は「もう高校はいらない」)という割とヒットしたドラマであった。そこでは、東大受験が描かれていることからして、(1)はそれなりに満たしているものの、学校教育の軛(くびき)から逃れて、つまりは高校には行かずに、自力で大検に合格して東大を目指すという筋書きであり、(2)は満たさない。また、上記の②の類型のスポーツ根性型は、それとは逆に(2)は満たしても、(1)には否定的であり、つまりは、スポーツが代表的だが、学問エリートを目指すことより大事な目標があって良いということを訴えているのが普通だ。
私は、ここに、即ち、(1)エリートの存在(象徴的な東大に入るということ自身)を肯定し、(2)自由を抑圧して管理されるということを認めるという、(1)×(2)型がヒットしているということに、今の教育を考える鍵、本当の意味での自由、私の言葉で言えば「メタレベルでの自由」の重要性が秘められているような気がしてならない。
次章では、自身の体験も踏まえつつ、その核心に自分なりに迫ってみたい。
3.教育における「本音」の大事さ ~ 真の自由/鉄鎖の中「にも」ある自由 ~
改めて書くまでもないが、現代における「正しい教育の実践」は、一見、本当に難しい。私塾や公共政策に関わる講座などを開いて実際に教壇に立っていることもあり、私自身もそのことを痛感している。
公教育(学校教育)だけ取り上げても、プログラミングに代表されるICT教育、タブレット端末などを活用した教育はもはや不可欠な流れになっているし(例:ギガスクール構想)、AIなどの活用が進む中、益々、知識の詰め込みではない教育が求められており、流行の言葉だけでも、PBL(Project Based Learning:課題解決型学習)や、AL(Active Learning:自立(律)的学習)などの用語が飛び交っている。「カッコ内に適切な前置詞を入れよ」といったタイプではない、使える外国語学習も必要だ。
学校(+塾・習い事)教育偏重の流れの中で、家庭や地域社会での限られた時間内の人間教育などは、それこそ困難を極めており、恥をしのんで告白すれば、我が家でも悩みの中にある。非認知能力の重要性、自己肯定感の醸成の大切さなど、どの時間を使ってどう達成していくのか、大変難しい問題であると言える。
そんな中、文科省は、最近、学習指導要領を大きく改定し、「生きる力」ということを前面に出した。昨年度から小学校で適用され、今年度からは中学校で、来年度からは高校で実施されるそうだ。誠に結構だが、そこでうたわれている「生きる力」を子供たちが獲得すること、即ち、書かれている表現を借りれば「何を学ぶか」以上に、「何ができるようになるか」「どのように学ぶか」をより充実させるには、言うまでもないが、教員の力が死活的に重要だ。
(参考までだが、ICT教育と教員の力について略述したのがこちらだ。日経BP社とマイクロソフト社の共催の企画に招かれ、私見を書かせて頂いた)
思考が色々と混乱する場合、つまり、あれやこれやで何が何だか分からなくなった場合、良く言われることだが、原点(原理原則)に立ち返ることが重要だ。本章の冒頭に、現代の教育は、「一見」本当に難しい、と書いたが、原点に立ち返って単純に考えれば、実はシンプルかもしれない。つまり、混乱の世にあって、子どもたちに「生きる力」をつけさせるには、きちんと寄り添う先生(大人)がとてつもなく大事であり、その先生に求められているのは、真摯なる対話力、即ち、本音で語らえる・ぶつかり合える関係の構築力だ。そうした本音トークの中で結果として子供たちが、自ら考えさせる力(=生きる力)を醸成していくことが求められている。
ここで強調したいのが、一般には誤解されがちなことであるが、「本音」や「自ら考える力」とは、自由な環境の中だけで生まれるわけではない、ということである。もちろん、そうしたケースもあるだろう。最近、女優の新垣結衣さんと結婚して話題になった星野源氏は、歌・演技・踊りなどなど、各種の才能を存分に発揮しているが、彼は、私の実家のある埼玉県飯能市にある自由の森学園というところの出身だ。私は同校に通っていたわけではなく、元より自分より7学年下の星野氏と知り合いなわけでもないが、地元の噂では、同校では定期テストもなく、酷い時代には、未成年の喫煙の自由すら認めているようなところがあり、校内に灰皿が置いてあったとすら言われていた(あくまで噂である)。いずれにしても、学校の名前のとおり、極めて生徒の自主性、自由さを尊重する学校であったことは間違いないであろう。星野氏以外に、私も数名の出身者を知っているが(被災地のふたば未来学園の校長の南郷氏など)、そういう環境下で育ったのか、独自のユニークな考え方をする人が多いと感じる。勝手に共感を覚えている。
ただ、一方で、厳格な管理教育下からも、また、自由な発想を持つ者が生まれるのも真実である。飯能市からほど近い川越市にある秀明学園に通っていた私は、全寮制の下、かなり厳格な管理教育を受けていた。寮に持ち込めない禁制品は多数あり、起床や消灯の時間も厳格で、服装も家からの登下校の通学時は制服なのは当たり前としても、寮内であっても、基本的には丸首の特殊な「寮内着」の着用が求められていた。進路指導も、基本的には、「頑張っていい学校に行け」という方向で、夜間に至るまで勉強時間がコントロールされ、その中で、医学部志望者が多かったのが特徴的だ。(私は、規則破りの常習犯で中学の頃は自習時間も勉強せず、しょっちゅう叱られていた。)
ただ、そんな管理の厳しい学校からも、否、厳しい学校だからこそ、私のような「変わり種」も生まれるし、これまた直接の知遇はないが、後輩たちの中には、ミュージシャンや映画監督、上記の『青天を衝け』で重要な役を務めている俳優もいる(昨日、栄一に刃を向けた真田役の板橋駿谷氏)。
一説にはルソーの言葉ともされるが「鉄鎖の中にこそ自由がある」という言葉もある。十七字や季語などの縛りがあるからこそ、その中で、とても自由な句(俳句)が生まれるとも言える。特に寮という夜を過ごさざるを得ない空間で、管理の重要性を本音で真剣に語る教師や、意味も考えずにルールを本気で振りかざす教師、「いや実は学校は管理志向なんだが、自分はそこまで管理志向ではない」と吐露する教師などと触れ合うこと、そしてそれを受けて生徒同士で語らうこと、すなわち、様々な形で本音でぶつかり合う環境が、子どもたちの「生きる力」を生んできた気がする。学歴やら大企業・大病院への就職率はともかく、会社経営・病院経営などをしている多くの同級生を見るに、自らの足で立つ形で社会で活躍している者が多い気がしている。
学生から見ると許しがたかったり、あり得なかったりする価値観を本気で振りかざされることで、むしろ、そのことへの反発から自分の考え方が醸成されることもあるわけで、「はい、自由に何でも選んでやってどうぞ」と言われて、逆に当惑してしまい、「生きる力」が醸成されないことも多々あることは明白だ。
つまり、「真の自由」は、繰り返しになるが「鉄鎖の中」から生まれることもあり、もちろん、逆のこともあり、子ども毎に「生きる力」をつけさせてくれる環境は異なる。どの環境が向いているのかを判別することは実は難しく、或いはある環境が向いていないからこそのいい結果を生んだりすることもあり、一概に「自由な環境が良い」とか「管理教育が良い」とは言えない。
すなわち、教育における真の自由には、逆説的だが「自由の否定」も含まれ得ることの認識がとても大事だと思われる。そして、実は『ドラゴン桜』が、桜木が共感を呼んでいるのは、これまでのドグマとも言えた(1)エリートの否定、(2)管理の否定という、教育界・左派的あり方への疑問を正面から打ち出したという「真の自由」「メタ的自由」のあり方を現出させたこと、多くの人がそれに気づき始めているということにあるように思えてならない。バブル崩壊以来、単純な自由、「何をやってもいいよ」的緩さが、どちらかというとまかり通ってきたが、現実はそんなに甘くない。そんな多くの人たちの本音を代弁している面があるような気がしてならない。
そして、何が本当に子どもに「生きる力」すなわち、真の精神の自由や考え抜く力とも言うべきものを与えるのかは、上述のとおり分からないのだとすると、せめて大人に出来るのは、時に見守りつつ、時に、本音をきちんとぶつけること、きちんと議論することや語らうこと、でしかないような気がしている。
杞憂ならば良いのであるが、私が文科省という体制にやや懸念しているのは、上の私の仮説が正しいならば、そうした様々な教育の現場が自由に生まれるための環境整備に徹しよう、という実践を心掛けているのか、ということである。更にその上流にさかのぼるならば、そうした考え方、すなわち、教育の実践の場で「臨床」をしてきた中で見えてくる考え方を理解する者、すなわち、教育行政ではなく、教育の現場そのものに十分に触れて来た者(端的に言えば、何等かの形で教壇に立ってきたり、若者に寄り添ってきたりした者)、が意思決定の中枢に十分にいるのか、という点である。
日本の活力を復活させた幕末維新期には、各種藩校や寺子屋、松下村塾や適塾などの私塾が、維新後も多くの私学が、様々に、それぞれの価値観に基づいて乱立していた。本音を打ち出してぶつかり合える教育の場が、真に自由な教場が日本に多数生まれれば、意外と日本の復活も早いのではないか、という気もしないでもない。文科省は、とにかく規制を緩め、教科書なども自由にして、真の自由、メタ的自由を生み出すことに心がけるべきである。
4.最後に ~オマケとしての私の宣言です~
青山社中リーダー塾も5月22日(土)に11期が開講した。今年も素晴らしい方が多く参加してくれて、定員を2人増やして14名でスタートした。11期目にして、はじめて女性が半数を超した(8名)。毎週、私なりの本音をぶつけ、塾是とも言える「土足で踏み込みあえる関係」を構築して、日本の活性化に努めたい。
また、市のアドバイザーとして運営をサポートしている新潟県妙高市のみょうこうミライ会議では、今年は私の意見具申もあって「教育」をテーマの一つに掲げている。尊敬する花まる学習会の高濱代表や、やはり尊敬するNPO法人カタリバの今村代表にお願いして、市役所職員や市民と真剣に語らう人を送って頂くことになっている。紙幅の関係から両団体などの詳述はしないが、公教育とは別の形で、こうした本当に素晴らしい教育の場を提供する、それぞれの強い信念に基づいた団体が数多く生まれていることに、日本の可能性を感じている昨今である。
時代は「本音」を求めている。タブーを越えて、本当に語れることの大事さが、益々重視されている。2月のこのメルマガで、「政治未経験だったトランプ前大統領が受け、政治家30年以上の菅総理が受けない理由」というエッセイを書いたが、まさに本音と自由の重要性について書いた。最近の河野太郎規制改革担当・ワクチン接種担当大臣への期待の高さ(次期総理のアンケートでトップになることが多い)なども同じであろう。
本音で語らう日本、そうした人材を多数生む「メタ的自由」を意識した教育環境が日本に広がること、そのきっかけが『ドラゴン桜』から生まれていくことを期待してやまない。もちろん、私も現場からその一翼を担いたい、と強く想っている。