人新世と書いて、”ひとしんせい”と読む。
気候変動、食糧危機、コロナ禍等々、現代社会で私たちが対応しなくてはならない多くの危機は、「資本主義」に起因していると斎藤幸平は指摘する。
利潤を追求しつづける「資本主義システム」が限界を迎えている。そんなことになる前に、どんな社会へと移行すれば、環境破壊を食い止めたり、豊かな生活を続けたりすることができるのだろうか。
人新世とはなんだろう
ノーベル賞を受賞した大気化学者パウル・クルッツェンによる造語である「人新世」とは、人間の経済活動が地球環境を壊しつくす現代社会ことらしい。グローバル資本主義は経済を拡大させる代わりに環境に負荷を求め、気候変動やコロナ禍などの文明の危機を招く。
こうした危機を乗り越えるために、「資本論」を足がかりに「資本主義社会」を脱して脱成長主義社会へと進んでいく可能性を考えたのが「人新世の「資本論」」ということだ。
著者は、新たな社会像として「脱成長コミュニズム」という考え方を提唱している。今までのようにやたらに経済成長を目指すのではなく、経済をスローダウンさせ、水道をはじめとするインフラや公共空間など「コモン(共有財産)」の民主的な管理を中心に社会を再設計するというのだ。
その際、「コモン」によってさまざまなサービスをシェアする協同型経済に移行することで別の形の豊かさに気づけるかもしれないというのだ。
脱資本主義のために
「資本主義」のシステムは当たり前の前提になりすぎていて、そこから脱することは難しいと思われるかもしれない。そのためにはグレタ・トゥーンベリのように行動せよという。
そして、行動を変えるためには、まず意識を変えねばならない。大量生産、大量消費に駆り立てられ、富の独占を目指したりするのではなく私たちは自然の限界の範囲内で、シェアに依拠した豊かさを構想していくべきだとも。
その特効薬として、著者は、社会主義しかないという。
しかし、「社会主義」を構成する「コモンの担い手」や「アソシエーション」は判然としない。「市民の総意」という意味のようだが、これはネグリ・ハートが古典的な名著「<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性」でその担い手をマルチチュード と言ったものの、なんだかよくからないものだと批判されたはずだ。
また、著者は「脱成長」すべきだと提言する。先進国の市民の塗炭の苦しみは成長を目指すことによって生み出されているというのだ。
立場によって資本主義の見え方がちがう
たしかに、グレタさんの住む国はじゅうぶん「資本主義」的なのでブレーキをかけてもいいのかもしれない。けれども、名もない市場参加者の私から日本を見ると、世界で一番成功した社会主義国家が没落していく過程のように見えている。
それに、「コモン」が共同の生産手段を使って産出したプロダクトは魅力があるのだろうか。全国のレストランが昔のサービスエリアの食堂のようになるのではないだろうか、エンタメがみんなクールジャパンみたいになってしまうのではないかと心配になってしまう。
私は日本がとっくに脱成長していて、できたはずの成長ができなかった故の貧困化だと認識している。大学教授か、公務員か、大企業の正社員か、中小企業の契約社員か、ベンチャー企業の創業メンバーか、名もなき市場参加者か、などによって、また立場によって、日本の資本主義はまったくちがった風景が見える。
また、われわれはつねに「資本主義」を議論しているが、それは市場経済のことなのか、資本の自己増殖なのか、たんなる営利活動なのか判然としないまま行われているようにも思える。
資本主義が大好きな社会主義者?
私のように、既得権の側にいない者は、「これ以上日本を社会主義にしてどうするのよ」とも思うのだ。日本で新しいビジネスをしてよろしいかと役所に尋ねれば、判断しかねてストップをかかられるだろう。では、尋ねなければ、ビジネスがある程度大きくなったときに役所と既存企業から介入を受けるはずだ。
そもそも「資本主義」の行き過ぎが日本の閉塞感と絶望の原因なのだろか。原因を取り違えた対応は悲劇を招く。歴史的には、「社会主義」の分配の非効率のほうが悲劇を招いてきたように見える。現状でも国家や公務員が公正で効率的な分配をできているとは到底思えない。私のような古狸から見ると「脱成長コミュニズム」はくれぐれも慎重に行ってほしい。
しかし、著者は「資本主義」が大好きなように見える。私よりもよっぽど大好きなようだ。
その人の言論(本)と行動(Twitter)がちがう場合、私たちはどちらを信じればいいのだろうか。これも古くて新しい問題である。
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