本当は渋沢栄一に感謝されてなかった平岡円四郎

連載『令和太閤記 寧々の戦国日記』の第二回は、本能寺の変です。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、秀吉のところに、細川藤孝さまが光秀さまの様子がおかしいことを内々に知らせてくれたことになっていました。

佐々木蔵之介さん演じる秀吉が「もしかして、毛利など相手にしておる場合ではないぞ、さっさと片付けて帰り支度じゃ……これは面白いことになる」とつぶやき、信長さまの死を予期していたことになっておりましたが、真相はいかに寧々が謎解きを披露しています。

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本日はその内容と背景を紹介しようと思ったのですが、現在やってる大河ドラマ「青天を衝く」がまた嘘やり放題遣っているので、話題はそっちです。

大河ドラマでは、渋沢栄一たちを雇ってくれた、堤真一さん演じる、一橋慶喜の家臣・平岡円四郎が水戸浪人に殺されてしまいました。

「円四郎ロス」とか、「知られざる偉人・平岡円四郎」とか色々云われてにわかに注目が集まっています。

しかし、残念ながら、当の渋沢栄一は平岡円四郎に感謝するとか、誉めるとかまったくしてなかったのです。

読売新聞の記事は以下のように書いています。

堤真一さんが演じた平岡円四郎の志、渋沢栄一はどう引き継いだか

渋沢の談話集『実験論語処世談』の中で渋沢は円四郎について「一を聞いて十を知ることができる数少ない人だった」と述懐した上で、こうつけ加えています。

「一を聞いて十を知るというのも、学問なら格別だが、一概に結構な性分とは言えない。(中略)こういう性格の人は自然と他人に嫌われ、往々にして非業の最期を遂げたりするものだ。平岡が水戸浪士に暗殺されてしまったのも、一を聞いて十を知る能力にまかせ、あまりに他人の先回りばかりした結果ではなかろうか」

同書の別のくだりでは、「平岡が非凡の才識を有していたのは間違いないが、人を鑑別する鑑識眼は乏しかった」とも評しています。

自分を一橋家の家臣にしたのも、「まだ若いのに殺されてしまうのは可哀かわいそうだから助けてやろうくらいのことで、私を観みて大いに用いるべしとしたからではなかろう」と少々手厳しいです。

他の史料も円四郎を「人づきあいが下手で、独りよがり」と評しています。

平岡円四郎は、旗本・岡本忠次郎の四男です。それが、旗本・平岡文次郎の養子となりました。石高は400石です。3000石超えると大名に準じるということになりますが、400石だと小さな藩なら家老、大きな藩でも裕福な上級武士です。

現代でいえば高級官僚で、実父も養父も地方の代官をつとめていたので、総務省のキャリア官僚と云ったところでしょうか。

円四郎は頭は良かったので昌平坂学問所に入って寮長になったのですが、人間関係は苦手で、辞めてしまい、フリーター生活をしていました(といっても400石は入ってきます)。

ところが、当時、官僚でも出世頭だった川路聖謨から可愛がられます。そして、九男の慶喜から骨のある家臣を派遣してくれと頼まれた川路の推挙で一橋家に出向します。そこで慶喜を将軍に擁立する運動をして、とくに、慶喜がいかに優れた素質の持ち主であるかという都市伝説を創り上げます。

ところがかえって反感を買って、将軍推挙は失敗、甲府在勤の閑職に回されてしまいます。

しかし、井伊大老が失脚して慶喜が将軍後見職になると、家老格として京都で活躍し、近江守に叙任されました。「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」(『徳川慶喜公伝』)とまで言われたようです。

江戸で遊学していた渋沢栄一を雇ったのもこのころです。

しかし、、元治元年(1864)6月16日に京都町奉行所与力長屋(千本組屋敷)で水戸藩士の江幡広光、林忠五郎らによって暗殺されました。