悪魔「私は存在しない」

米国のサスペンス映画「ユージュアル・サスぺクツ」(1995年作)の最後の場面で俳優ケヴィン・スペイシーが演じたヴァーバル・キントが語る有名な台詞を紹介する(スペイシーはこの役でアカデミー助演男優賞を得ている)。

“The greatest trick the devil ever pulled was convincing the world he did not exist”
(悪魔が演じた最大のトリックは自分(悪魔)が存在しないことを世界に信じさせたことだ)

▲ギュスターヴ・ドレによるジョン・ミルトンの「失楽園」の挿絵、「地球へ向かうサタンを描いている」(Wikipediaから)

それではなぜ悪魔は自身の存在を隠したいのだろうか。パパラッチ対策ではない。神が存在しないことを人間に信じさせるために、先ず自分が存在しないことを宣言する必要があるからだ。自分の存在を否定してでも、「神はいない」ことを説得するためだ。

悪魔が存在していれば、それでは神は何処にか、という問題が湧いてくる。だから悪魔は天地創造の神を否定するためにはどうしても「自分は存在しない」といいふらさなければならないのだ。高等な戦術だ。

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは「神は死んだ」といってキリスト教関係者を驚かしたが、大学の哲学教授は「『神は死んだ』といったニーチェは死んだ」と述べて学生たちを笑わす。しかし、「悪魔は死んだ」といった哲学者はこれまで聞かない。神を殺そうと考えた哲学者はいても悪魔をやっつけようと考えた哲学者はいないのだ。あたかも、神は「実存在」だが、「悪魔」は架空の作り物というわけだ。

フランスで啓蒙思想が広がり、フランス革命で人道主義が台頭、同時に、キリスト教会の権威は相対的に低下していった、多くの知識人は教会が主張する世界観、神を否定し、人文主義と科学至上主義が時代を主導していった。神の権威は揺れ、神の存在は懐疑的に受けとられていった。その集大成として無神論的唯物思想が台頭し、神を否定する共産主義世界が現れてきた。ここまでは悪魔の計算通り進んできたわけだ。

神はいないのだ。妄想に過ぎない。現実の世界では一部の資本家が多数の労働者を搾取している。このような世界に神はいない、という世界観が生まれてきても当然かもしれない。神はいないと叫ぶ人は増える一方、悪魔の存在についてはもはや議論の対象にも上がらなくなってきた。悪魔にとって理想的な展開ではないか。

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聖書の中で悪魔については約300回、言及されている。有名な個所を拾ってみると、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」(ヨハネによる福音書13章2節)とか、十字架に行く決意をしたイエスを説得するペテロに対し、イエスは「サタンよ、引きさがれ」(マルコによる福音書8章33節)と激怒している。聖書の世界では悪魔は生き生きと描かれているのだ。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)は悪魔について、「悪魔は擬人化した悪」と規定し、「悪魔の影響は今日でも見られるが、キリスト者は悪魔を恐れる必要はない。しかし、悪魔から完全に解放されるためには、時(最後の審判)の到来を待たなければならない。それまでは悪魔に勝利したイエスを信じ、それを慰めとしなければならない」と述べている。

しかし、ローマ・カトリック教会では今日「悪魔」について話すことに抵抗感を覚える聖職者が少なくない。バチカン法王庁が1999年、1614年の悪魔払い(エクソシズム)の儀式を修正し、新エクソシズム儀式を公表した。新儀式では、①医学や心理学の知識を決して除外してはならない、②霊に憑かれた人間が本当に病気ではないかをチェックする、などの条件が列記されている。「悪魔」がもたらす憑依現象を脳神経学的、精神分析学的な領域から先ずチェックするように警告しているわけだ。

バチカン法王庁が新エクソシズムを公表した背景は、霊が憑依して苦しむ信者が増加する一方、霊の憑依現象が「悪魔」に関連するのか、精神病のカテゴリーから理解すべきかで議論が生じたからだ。

旧約聖書の研究者ヘルベルト・ハーク教授は、「サタンの存在は証明も否定もされていない。その存在は科学的認識外にある」と主張、悪魔の存在を前提とするエクソシズムには慎重な立場を取っている。それに対し、著名なエクソシスト、ガブリエレ・アモルト神父は、「悪魔の憑依現象は増加しているが、聖職者はそれを無視している」と警告している(「悪魔(サタン)の存在」2006年10月31日参考)

当方がこのコラム欄で「悪魔」について書くと、寛容な読者はただ笑いだすが、時には「馬鹿な話はしないでください」といった警告を発する。神について書けば、「神学的な議論」と受け取ってもらえるが、悪魔について書けばオカルト、と罵倒され、狂人扱いされるのだ。

しかし、悪魔の業を指摘せずして事例を説明できないケースが増えてきているのだ。当方はコラムでは「背後に悪魔が暗躍しているからだ」と言いたくなることがあるが、我慢せざるを得ない。そんなことを書けば、読者はそれ以上読まなくなるからだ。

はっきりとしている点は、悪魔の業を説明できれば、多くの現象をかなり明確に説明できるということだ。変な表現だが、神だけでは説明が仕切れないからだ。悪魔はあらゆる分野で暗躍している。繰り返すが、悪魔の存在について言及しなければ説明できないことが多くなってきているのだ(「初めにジェンダーがあったのか?」2021年5月10日参考)。

21世紀の今日、悪魔の業が増える一方、神の存在感は益々希薄化してきた。賢明な悪魔は自身の業さえ神の不在のせいにすることで、神を益々追いつめている。結論をいえば、悪魔は存在する。問題は、神が創造した世界になぜ悪魔が存在するか、という問いに誰もが納得できる答えを用意しなければならないことだ。それが出来ない限り、神は批判にさらされ、悪魔は舞台裏で窮地にある神をみながらほくそ笑んでいるだろう。

「この世の神」悪魔(サタン)は、地上の人間に「自分は存在しない」と信じさせることに成功しているのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年6月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。