現代の浦島太郎「五輪開会式」観戦記

アルプスの小国オーストリアの首都ウィーンに住んで40年が過ぎた。その間2、3回しか日本に帰国していないので、当方は日本に戻れば「現代の浦島太郎」のような立場だ。見るもの聞くもの全て昔とは違う。唯一、人々が話す言葉が日本語だから、彼らの会話が理解できるが、正直言って全て分かるとは言えなくなってきた。人々の口から飛び出すさまざまな外来語混じりの日本語についていけなくなってきたのだ。その度、ヤフーやグーグルの検索でその意味を調べなければならない。

  東京夏季五輪大会の開会式に臨まれる天皇陛下 (いずれもオーストリア国営放送の中継から、2021年7月23日)

ホスト国日本の国旗掲揚へ (いずれもオーストリア国営放送の中継から、2021年7月23日)

そんな当方は23日午後1時(ウィーン時間)から5時頃まで4時間余り、テレビの前に座り、第32回東京夏季五輪大会開幕式を家人と共に観戦した。長時間だったの少々疲れたが、やはり感動した。どの場面、どのシーンが、と問われれば、「この場面が特に良かった」とは答えられない。世界で新型コロナウイルスの感染が拡散し、パンデミックとなり、400万人以上の人々が犠牲となっている。多くの犠牲と困難な年に、東京で開かれた最大規模のイベントというべき五輪大会が開催された、という事実に感動した、といったほうが正確かもしれない(敢えていえば、約1800台のドローンが競技場上空で巨大な輪を描いた時には驚いた)。

時事通信社記者は、「『東京五輪開催反対』と叫ぶ人々の声が開幕式の会場、国立競技場にも風に乗って聞こえた」と報じていた。デルタ変異株の感染が世界的に拡がっている最中の五輪大会の開催だ。感染拡大を恐れる人々がいても当然だ。オーストリア国営放送は、「日本の国民の半分が開催反対だった」と報じていたが、それは少々過大報道といった感じはした。

五輪大会が無観客で開催することが決定された時、「無観客の五輪大会は意味がない」という反発の声があったという。オーストリアの日刊紙スタンダートの「読者の声の欄」では、「新型コロナ感染の拡大の危険を無視して欧州サッカー選手権では観客入りの試合を強行した。スポンサー問題、巨額の金銭問題があったからだ。一方、東京は新型コロナ感染防止という事を最大の課題として経済的な損失を甘受して無観客開催を強行した。日本側の決定は非常に賢明だ」と評価する意見が掲載されていた。当方は新型コロナ感染が続いている以上、無観客開催はやむを得なかったと考える。確かに、五輪イベントの雰囲気は減少するが、テレビ中継などを通じて五輪大会を観戦出来る。

2013年、第32回夏季五輪大会が東京で開催されることに決定した。あれから8年の開催準備期間が経過した。厳密にいえば、開催地に立候補を表明した2011年から数えると今年で10年目だ。この立候補表明から23日の開催日まで歩んできた関係者にとってどれほど困難な道だったかを考える時、当方は思わず涙がこぼれそうになった。この10年の間、東日本大震災、福島第1原発事故があった。新型コロナ感染拡大のため五輪史上、初めて開催が1年延期された。それらは想定外の出来事だった。

開会式典を観ている時、オーストリア放送記者が「台風が接近しています」と報じた。当方は「ああー」と大きなため息がこぼれてしまった。大震災、原発事故、新型コロナウイルスのパンデミック、そして台風の襲撃、これでもか、これでもかといわんばかりに多くの試練に直面している日本、東京五輪大会を考える時、過酷な条件下で五輪開催に踏み切った関係者に対し同情の念を禁じえない。

開催日直前までさまざまな不祥事、出来事から関係者が辞任したり、責任者の入れ替えが行われた。そして23日、東京で半世紀以上ぶりに再び五輪大会の開催日を迎えたわけだ。

「現代の浦島太郎」の当方は競技場で日本の国旗が掲揚されるシーンで目頭が熱くなった。この時まで舞台の裏で準備してきた人、重要な決定を下さなければならなかった政府、JOC、組織委員会等の関係者、そして新型コロナ感染を防止するためと考え五輪開催の中止を訴えてきた国民に対して、「ご苦労さん」という思いが湧いてきた。五輪開催のためにを汗を流した人々、感染防止のため開催に反対した人々、同じ日本国民として全力を投入してきたわけだ。そして開催された以上、次は日本国民の一員として大会の成功のために思いを一つとしてほしい。

繰返すが、新型コロナ感染の拡大阻止は重要だ。東京五輪大会が後日、歴史的な大会となったと評価されるとすれば、開催反対を主張した国民もそのために一定の役割を果たしたことになる。開催反対者がいたらこそ、開催者側は一層努力と改善を図ってきたからだ。東京五輪大会で施行されるコロナ規制は最高水準だ。オーストリアの参加選手の1人が、「選手間の交流や観光も制限されているから残念だが、それだけ競技に集中できるメリットがある」と好意的に受け止めていたのが印象的だった。

8月8日まで世界から集まったスポーツ選手たちが競技を行う。彼らはコロナ禍という困難な状況下でトレーニングをせざるを得なかったはずだ。どうか悔いのないように持てる力を発揮してほしい。

東京五輪大会はひょっとしたら「五輪は参加することに意義がある」といった近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタンの五輪精神が蘇る大会となるのではないか。世界が同じ困難に直面し、開催できるかどうかすら確かではない状況下で、無観客で開催された五輪大会に参加した、という事実は、スポーツ選手にとって金メダルを取ったと同じ大きな喜び、思い出となるのではないか。一方、その五輪大会のホスト国となった日本の国民には、「歴史に参画した」という感動が時間の経過と共に深まっていくのではないか。そうであってほしい。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年7月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。