改憲で、日本の「先送りカルチャー」に抗する

篠田 英朗

アメリカの「キャンセル・カルチャー」が良く知られてきているが、日本はさながら「先送りカルチャー」全盛である。

「まず菅の辞任が先だ」、「改憲より先にやることがある」、「根回しを先にしなかったからダメだ」・・・、日本全国に至るところに、「問題を先送りにせよ!」の主張があふれかえっている。

これが超高齢化社会というものか、とつくづく嘆息する。皆が色々なことを言っているようだが、要するに、「俺は自分の生活を変えたくない、何とかしろ」、ということである。

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絶望したくなる気持ちは大きいが、まだもう少し言論人として働かないといけないな、と思い直して、私が、最近関わってきているのが、憲法問題である。

『集団的自衛権の思想史』(2016年)、『ほんとうの憲法』(2018年)、『憲法学の病』(2019年)、『はじめての憲法』(2019年)と執筆しながら、憲法学者の方々との討論の機会を作ってくれないかと知り合いに頼んだりしてきた。研究者、出版社、ジャーナリストの方々に頼んできたが、実現の糸口も見つからなかった。

ところが今回「ロックダウン」の是非について議論するというBSフジプライムニュースの番組に出演する機会から、石川健治・東京大学教授(憲法学)と同席をすることができた。願ってもない機会だったので、主役の下村博文・自由民主党政務調査会長には申し訳なかったが、二人の間でやりとりを作るような時間も作ってしまった(もちろん私にしてみると全然時間が足りなかったのだが・・・)。

日本の憲法は、74年にわたって一度も改正されていない。「先送りカルチャー」の権化と言ってもいい存在だ。左右のイデオロギー対立の中心でもあるがゆえに、「決められない日本人」の象徴でもある。

曖昧で党派的な解釈が、日本社会の人事慣行に根深く絡み合う形で、広がっている。それで憲法が身動きがとれなくなっている。そのため、解釈を確定させるための改憲が必要だ、と私は主張している。

この私の主張は、憲法9条問題で、最も端的に示される。ただし新型コロナ対策などもかかわる緊急事態条項についての議論も、全く同じ構図だ。

ロックダウンやら私権制限やらの問題は、要するに、憲法における「人権と公共の福祉」の関係の問題である。

石川教授は、憲法学者の主流の意見を代表して、現行憲法でロックダウンは可能だが、やってはいけない、と主張する。現行憲法でも可能な理由は、「公共の福祉」の概念が憲法にあるので、それを根拠にして感染症対策ができるからだ、という。しかしやってはいけないのは、「先にやるべきことがある」からである。

政権批判の羅列である「先にやるべきこと」については、ここでは扱わない。先にやるならやってもいいし、後でもいいし、同時にやってもいい。順番はどうでもいい、としか思わないからだ。

問題は、新型コロナ対策が憲法改正に波及していかないよう心配している勢力が、「先にやることがある」論を、「現行憲法で何でもできる」論と組み合わせていることである。

173カ国が締約国になっている国際人権法の中核をしめる「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)」というものがある。日本も加入国の一つとして、日本国憲法98条の「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」ことから、約半世紀にわたって拘束されている。この条約にもとづいて、数年に一度のペースで「自由権規約委員会」が各国の人権状況を検討する。

半世紀前の第1回から、もっとも最近の第7回まで、一貫して「自由権規約委員会」は、日本国憲法の「公共の福祉」概念があまりにも曖昧であるので、改善が必要だ、という勧告を行い続けている。つまり、「公共の福祉で何でもできる、憲法改正の必要はない」、は深刻な人権侵害を招く危険性を内包している、というのが、国際的な指摘である。

日本政府は、同委員会からの質問に返答にあたって、「心配はない」といった主張を繰り返している。しかしその返答内容が曖昧で、対応措置をとる意図が全くないものであるため、「自由権規約委員会」も繰り返し指摘を続ける、というやり取りが数十年にわたって続いている。

当初の日本政府の回答は、当初は宮沢俊義・東京大学法学部教授の「一元的内在制約説」にもとづいていることが明らかな内容であった。半世紀前の憲法学会の最高権威が宮沢であり、それが「通説」だったからだ。これは要するに、「公共の福祉」は、人権と人権の調整の問題である、という学説である。そこで日本政府は、人権が人権と調整されている限り人権が深刻に侵害されることはない、という主張をしていた。

ところが宮沢の弟子の芦部信喜教授の時代をへて、さらにその弟子の長谷部恭男教授の時代までに、この「一元的内在制約説」では説明できない事象や、これに反する国際的な学会での議論の潮流が根強いことが明らかになってきた。そもそも日本政府の「一元的内在制約説」に納得しない「自由権規約委員会」そのものが、問題の象徴である。そこで長谷部教授は、「公共の福祉」の概念には独自の内容があり、全てを人権に還元することはできない、と言い始め、宮沢説の批判的修正の見解を学会で広めるようになった。

長谷部教授は、「内閣法制局が違憲だと言っていたのだから集団的自衛権は違憲だ」、という主張で世間では有名になった。しかし学界では、「個別的」自衛権は合憲だ、という意見を初めて公にした東大法学部の憲法学者として知られる(それまでの学界通説は全面違憲論であったため)。冷戦終焉後の時代に学会の権威になった立場がそうさせたのだろう。

長谷部教授の「公共の福祉」論も、同じような意図があるものとして理解することができる。ところが、自衛権をめぐる議論と同じように、既存の学会通説の修正を図ろうとする意図と背景は明快であるものの、長谷部教授が独自の精緻な体系的な学説を出したとまでは言えないため、曖昧な憲法解釈がいっそう曖昧になった、という結果がもたらされた。自衛権もそうである。個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、という長谷部教授自身の見解を、長谷部教授は体系的に説明する努力を行っていない。「公共の福祉」も同じような状態である。「そろそろ宮沢説を見直すということにしよう」という意図は明らかなのだが、「じゃあ、どうするんだ」という問題は、全く解決されていない。長谷部教授の政治的立場は明快だが、長谷部理論というものはほぼ存在していないからである。憲法学者に個別イシューで「〇×」のアンケート調査をしてみる以外に、手の打ちようがない。

憲法に何が書かれているのかわからないので、全てはその時々の憲法学者に対するアンケート調査の結果で決まる、という国家運営の仕組みは、極めて粗悪である。それにもまして当事者の憲法学者たちが、「憲法を曖昧なままにして手を付けるな、いざとなったら〇×方式の憲法学者へのアンケートさえ行ってくれれればそれでいい」と言わんばかりの主張を堂々と繰り広げているのは、大問題である。

私は、これまでも、この国家運営の仕組みを、結果における「憲法学者独裁体制」と呼んで厳しく批判してきた。BSフジプライムニュースでも「憲法学者独裁体制はダメだ」と主張させていただいた。

ちなみに国際人権法の要である「市民的及び政治的権利に関する国際規約」は、「公の緊急事態」の概念を設定し、その状況で人権条項に制約がかかることを認めている。この「自由権規約」によれば、「緊急事態」においては、「公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要」制限をかけることができるので、感染症対策を理由にした立法を通じた特別措置が可能である。

私は、自由権規約の考え方にそって憲法において緊急事態の枠組みの基本を定めたうえで、人流制限とあわせて医療体制整備を確保し、人々が不公平感なく新型コロナに立ち向かっているという気持ちが持てる公正性を確保するための国家介入を可能にする立法措置が必要だと考えている。ロックダウンだけでなく、医療体制に対する介入が必要だ。そのためには通常法での精緻な仕組みも必要が、緊急事態の考え方の枠組みを憲法でも定めておくことが望ましい。どっちが先か、を議論するために時間を浪費することには何の意味もない。

なぜ人権条約に「公の緊急事態」が設定されているかといえば、「緊急事態」においても絶対に破ってはいけない人間の尊厳にかかわる中核的な人権規範と、それ以外の人権規範を分けたりすることによって、緊急事態においても国際的な人権規範を貫くためである。つまり「緊急事態」においても「法の支配」を維持するための枠組みをあらかじめ設定しておくために、あえて最初から「緊急事態の枠組み」を定めているのである。

「問題は先送りにしよう、憲法は曖昧にしておこう、国家の運営方針は憲法学者に対するその都度の〇×方式のアンケート調査の結果で決めていこう」という日本人の考え方と、国際法の考え方は、根本から鋭く対立する。

問われているのは、日本は「憲法学者アンケート独裁主義」のガラパゴス国家なのか、国際法規範にそって制度を構築する国際社会の正当な一員なのか、である。

私は、BSフジプライムニュース恒例の最後の「提言」では、「国際法に合致した立憲主義」ということを訴えさせていただいた。

もちろん未曽有の超高齢化社会である日本が、「先送りカルチャー」に凝り固まっていることは痛感している。私のような立場が主流になる可能性は乏しいのだろう。

そうは言っても、私はそれでもまだ50歳を超えたくらいのところだ。早めに引退するにしても、もまだもう少し仕事をしなければいけない。今後も主張は続けていきたい。

私と憲法学者との討論の機会を設定していただける方は、どんな方であれ、今後も大歓迎である。