優生思想ではなく暴言
メンタリストDaiGo氏による生活保護受給者・ホームレスに対する発言が世論から強い批判を浴び、それを受け氏は一連の発言を撤回・謝罪した。
DaiGo氏の発言に対してナチスを引き合いに出して優生思想であると批判する声もあるがどうだろうか。彼の発言は思想というほど体系的だろうか。
近年、差別的な発言に対してすぐ思想性を強調するきらいがあるが、思想とは体系的なものであり、だからこそ一度権力に採用されると大規模な「事業」になり得るのである。
視聴者の質問に答える形式で出てきた発言に対して思想と判断する、あるいは思想性を読み解く作業は過剰反応ではないだろうか。DaiGo氏の発言は素朴単純に幼稚な「暴言」と捉えて良いのではないだろうか。
DaiGo氏の発言を優生思想と捉えると問題を複雑化させ再発防止の妨げになる危険性も意識すべきである。
考えたい同胞意識
DaiGo氏の暴言を考えるとうえで重要なのは思想ではなく意識、具体的には納税者意識ではないだろうか。彼は納税者意識が高いから税金の使用用途、効果、還元について関心が高く、それが肥大化した結果、基本的に納税しない(消費税は例外)生活保護受給者、ホームレスに対し暴言を吐いたと考えたほうが自然に思える。納税者意識という言葉は日常的に使用されているし、筆者の偏見で言えば「税金の無駄使い」を検証する文脈で使われることが多く、事実上「投資家」「株主」と同じ感覚で使用されている。確かに納税者意識が高まれば無駄な歳出の抑制に繋がるが、納税とは縁が薄い弱者の発言力の低下、最悪、奪うことにも繋がる。
では納税者意識の肥大化を抑えつつ弱者への配慮を忘れない心構え、意識改革をすれば良いのだろうか。
筆者はもっと踏み込みたい。具体的には「なぜ弱者を支援するのか」についてである。
弱い人、困っている人を助けるのは当然である。これは人権概念が発見される前から主張されていたことである。
しかし、実際は支援される弱者は限られる。我々日本人はアフリカ大陸に多数の弱者がいることは知っているし、彼らを支援することに反対はしないが日本人の弱者と同じように支援することには躊躇する。同じ弱者でも国外にいる外国人と日本国内に住む日本人を同じと判断する者は極小派だろう。
では日本人は優生思想に染まっているから自国民の弱者を優先するのだろうか。もちろんそうではない。弱者支援に優先順位がつけられる、あるいはつけている事実は我々の日常でも大なり小なり目撃、経験しているのではないか。例えば同じ弱者でも自分の家族と赤の他人を同じように支援する人間はほとんどいないと思われる。仮に財産に余裕があっても家族と赤の他人を同程度に支援する者は例外ではないか。単に家族への支援が手厚くなるだけではないか。
率直に言おう。弱者支援を語るうえで同胞意識は無視できない。
DaiGo氏が「生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」と述べたのも彼は愛猫家だから生活保護受給者より猫に同胞意識を感じていたからである。
生活保護受給者より猫の命を優先する発言は批判されるべきだが、一方では同胞意識は強力な保護意識を含むという面を読み解くべきだし、なにより彼も同胞意識さえあれば弱者を支援するという考えを持てる人間だということがわかる。もし彼が血も涙もない人間ならば猫の支援も主張しなかったはずである。
仮にDaiGo氏が生活保護受給者・ホームレスに同胞意識を持つとしたら、それは具体的にどんなものだろうか。筆者が真っ先に思いつくのは「生活保護受給者・ホームレスは自分と同じ日本人」という同胞意識である。
もちろん筆者は単にDaiGo氏は「日本人」という自覚を持つべきだと主張したいのではなく、あくまで「ナチス」「優生思想」なる言葉を用いて今回の騒動を分析しても生産的な議論にはならないと主張したいのである。
正直「生活保護は国民の権利である」の言葉も納税者意識を持つ者に対して有効なのか疑問である。「権利の行使」に不平等感を持つだけではないか。
人間の生命を軽視する暴言は批判されるべきである。弱者を自立に向けて支援することも大事である。
しかし、同胞意識の有無によって猫の命は人間より優先され弱者支援にも優先順位がつけられてしまうのが現実ならば正面からタブーなしに同胞意識について議論すべきではないだろうか。