「#補償付きロックダウンを求めます」が日本の民主主義の息の根を止める

筆者は細々と鉄道模型のジオラマ用の建物などを輸入・製造・販売している。販売にあたっては宣伝が必要だが、専門誌に広告を掲載できるほどの余裕はまだなく、adobeのillustratorで組版する技量もない。そのため、twitterなどのSNSを用いて宣伝を行っている。

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さて、宣伝のために使うtwitterで偶然「#補償付きロックダウンを求めます」というタグを見つけた。筆者が見る限り、新型コロナ対策を名目とした国家による強権的な権利規制を求めるとともに、金銭的な支援を行うことを主張するタグである。このような言説が流布される背景としては、新型コロナに対する恐怖感とリスクの過大評価があると考えられる。

確かに新型コロナの感染状況は深刻化しているように見える。PCR検査の陽性者数は依然として高水準で推移している。一方で各種統計から推測する限り、重症者数の割合は多く見積もっても1%程度である。死者数はここ1週間程度30~40人程度で推移しているが、8月以降毎日1~2万人が新規陽性者になっていることを鑑みると死亡率はかなり低いことになる。つまり、陽性者という数だけに注目すると深刻化しているよう見えるが、新型コロナのもたらす危険ということに着目した場合状況は必ずしも深刻化しておらず、季節性インフルエンザと同レベルの危険しかもたらさないといえる。

このことより「#補償付きロックダウンを求めます」という主張が妥当性を持つほどの危機的状況ではないといえるが、実は今回の論点はそこではない。「#補償付きロックダウンを求めます」という主張においては、金銭的利得さえあれば民主主義を下支えする基本的人権(集会の自由・移動の自由など)を全面的に放棄しても構わないという、いうならば拝金主義に基づく民主主義の否定が行われているのである。むろん「健康で文化的な最低限度の生活」を送るためには金銭は必要不可欠であり、国家に対し金銭的補償を要求することが悪であるとはいえない。しかし「#補償付きロックダウンを求めます」という主張においては金銭的補償があれば基本的人権を放棄しても構わないという、いわば金銭と基本的人権がトレードオフの関係として認識しているという点で危険な主張だといえる。

基本的人権は金銭でどうにかできるものではない。例えば民主主義とは程遠い北朝鮮においても金銭を多く持つ層は少数ながら存在するが、彼らが日本のような民主主義社会に存在する諸権利を金銭で買うことは絶対にできない。なぜなら北朝鮮においては基本的人権が尊重されない政治がなされているからだ。幸いにして現在の日本においては民主主義体制が「一応」機能しているが、いつそれが機能しなくなるかはわからない。いうまでもなく、ロックダウンは基本的人権をはく奪する性質のものであり、民主主義とは水と油である。そしてそういう政策を国が行うことは民主主義の自死といっても過言ではない。

国民を恣意なるままに統制したいという欲求を満たすために政治家がロックダウンのような主張を行うことは、受容は絶対にできないししてはならないが、理解自体はできる。問題は基本的人権をはく奪される側の国民が、率先して権利を放棄すべきという主張を行うことである。むろん「肉屋を支持する豚」のような「賤しい国民は身の丈に合った賤しい政策を支持せよ」という言説がおかしいことは十分に理解している。しかし、「#補償付きロックダウンを求めます」という主張を行っているアカウントのほかの主張を確認すると、なぜか「肉屋を支持する豚」という言説に無批判に飛びつくようなリベラル・左派的性質の強い主張ばかりであった。このことから、例外はあるにしろ「#補償付きロックダウンを求めます」という主張を行っているのは国家緊急権・緊急事態条項に肯定的な保守派ではなく、普段は基本的人権の尊重を声高に叫ぶリベラル派が中心であるといえる。片方で人権擁護を主張しながらもう片方で国民の権利はく奪を主張しているのは自家撞着以外の何物でもないが、この背景としてはおそらくリベラル派特有のゼロリスクへの拘泥があり、それが人権擁護よりも優先されるべきと考えていると推測される。

もう一つ懸念材料がある。それはロックダウンがどれくらい続くのかということである。「#補償付きロックダウンを求めます」というタグで主張している人はそう長い期間ロックダウンするとは考えていないだろう。しかし国家が捏造された、あるいは過大評価された「危機」を口実にした国民の弾圧と権利はく奪を行うことは古今東西行われてきており、それは比較的長い期間続く。今回主張しているロックダウンは「危機」を口実にした国民の弾圧と権利はく奪そのものだが、仮にひとたびロックダウンと称し国民の権利がはく奪された場合それが数年以上の長期間行われることは想像に難くない。加えて新型コロナにおいては次々に新種が出てきては、それがさらなる災厄をもたらすと報道されていること、さらにはリベラル派の偏執的なゼロリスク志向といったことを鑑みた場合、「#補償付きロックダウンを求めます」と主張する人が、新型コロナが収束したと認識する状況は最悪未来永劫訪れない可能性もある。仮に「#補償付きロックダウンを求めます」という主張を政府が呑んでしまった場合、基本的人権に下支えされた日本の民主主義は完全に終わってしまう。

民主主義の否定が徐々に市民権を得始めている状況を筆者は憂慮する。「#補償付きロックダウンを求めます」という主張が現実になった時日本の民主主義は崩壊し、新たな暗黒時代へと突入する。与野党問わず民主主義の否定に与することなく、国民の基本的人権や民主主義を最大限擁護するよう努めるべきである。それとともに国民においても、「#補償付きロックダウンを求めます」のような民主主義を否定する言説に幻惑されることのないようにすべきである。