“エルサレム症候群”とメシア探し

メシアという言葉は知っていたが、通称“エルサレム症候群”(Jerusalem-Syndrom)と呼ばれる現象は知らなかった。世界から聖地エルサレムを訪れる巡礼者は多いが、エルサレムを訪ねたキリスト教巡礼者の中には「自分はメシアではないか」「自分は神に選ばれた」といった思いが突然湧いてくるケースが報告されている。精神科医の間では“エルサレム症候群”と呼ばれている内容だ。この現象はメシア・コンプレックスとはちょっと違う(メシアはヘブライ語で「油を注がれた者」という意味で、そのギリシャ語訳がキリストだ)。

エルサレムの神殿の丘(ウィキぺディアから)

エルサレムはユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の3大唯一神教の聖地だ。聖地を巡って過去から現在に至るまで、宗派間で争いが続いてきた。その聖地を舞台に“エルサレム症候群”と呼ばれる特異な現象が見られるのだ。

エルサレムにはイエスだけではなく、自分を聖母マリア、ダビデ王、モーセと宣言する巡礼者が現れてくる。聖書の登場人物だけではなく、「最後の審判」を叫び出す巡礼者もいるという。要するに、聖書の舞台となったエルサレムを訪れた巡礼者の中には突然、精神的に異変が生じるのだ。自分をメシアだと思った青年がエルサレムの聖地周辺を放浪し、オリーブ山で世界の平和を訴えた時、アラブの若い青年たちに殴打されたという事件が報じられたことがあった。青年はもちろんメシアではなかった。エルサレム当局は青年の旅券に入国禁止のスタンプを押したという。

人は心で考えていたこと、見たいことが外に現れてくる。人生で困窮下にある人が聖地を訪れれば、イエスが自分の悩みや苦しみに答えてくれると期待する巡礼者も出てくる。そしてエルサレムの市街を歩き回る時、突然にひょっとしたら自分はメシアではないかという思いが心の底から湧き上がってくるキリスト者もいるというのだ。

エルサレム症候群は1980年代、イスラエルの医師Yair Bar Elによってクファールショール病院で精神病と診断された。正統派ユダヤ人地区であるギバ・シャウルの郊外にある同病院の精神科医グレゴリー・カッツ氏(Gregory Katz)はエルサレム症候群を2つのタイプに分けている。第1はエルサレムを訪れる前は精神的な病気はなかったが、聖地を訪れているうちに躁状況に陥るケースだ。第2は以前から躁鬱症か統合失調症に悩まされてきた人で、エルサレムを訪ねてそれが激しく出てくる場合という。

同病院の調査報告によると、「エルサレム症候群に陥る人は、自身の病理学的な傾向もあって、宗教的な色合いのある物語と、幻覚などが交差し、自分には特別の使命があると考えだす傾向がある」と分析している。エルサレム症候群を頻繁に誘発する場所として、「神殿の丘」、「岩のドーム」、「嘆きの壁」が挙げられている。同病院の調査報告によると、1980年から93年の13年間で1200人のエルサレム症候群の疑いのある患者が同病院に運び込まれている。

エルサレムという街の雰囲気が人々にエルサレム症候群を生じさせる契機となっているのは間違いないだろう。宗教的なキリスト信者にとって、エルサレムは天と地が出会う場所であり、イエスが十字架にかかって亡くなった場所に自分が立っている思いで心が激しく動かされるのだろう。神の子を産むためにエルサレムに来たと主張する女性、「最後の晩餐」を準備するようにホテルの料理人に命令した男性巡礼者など、様々なケースがあったという。エルサレム症候群に罹る人は男性より女性が多く、平均35歳、米国や北欧から来たプロテスタント系キリスト信者が数的には多いという。

興味深い点は、エルサレム症候群はけっして最近見られる症候群ではなく、昔から聖地を訪れた巡礼者に目撃され、“エルサレム熱”と呼ばれていた時代もあったという。聖地エルサレムは巡礼者をイエスが生きていた時代に呼び戻し、時にはメシアに変身させる魔法を有しているのだ。ただし、エルサレムの街自体が昔の風情を次第に失い、世俗化されてきたこともあって、エルサレム症候群の患者数は近年、減少してきているという。

蛇足だが、Netflixが2020年に制作した「メシア」という10回シリーズの映画が人気を呼んでいる。21世紀の今日、メシアと呼ばれる人物が現れた場合、現代人はどのように反応するかがそのテーマだ。メシアと呼ばれる男は奇跡を起こす。それを見て信じる人々が出てくる一方、疑う人間が出てくる。両者の言動を映画が描いている。メシアと呼ばれる男の奇跡を見て、「この人物こそ神が遣わしたメシア」と考えたテキサスの牧師は彼に従う一方、米中央情報局(CIA)の女性捜査官は男を潜在的な危険なテロリストを考え、男の身辺調査を行う、といったストーリー展開をする。映画は、最後の場面で、ひょっとしたらこの男はメシアではないか、といった思いを誘発させて終わっている。

21世紀の社会は世俗化し、宗教界は低落し、腐敗してきたが、「メシア」という言葉は死語とはならず、映画界、メディアの世界だけではなく、政治、社会のさまざまな分野で登場してきた。世界には百人以上の自称メシアと名乗る人間がいるといわれる。時代の閉塞感もあって、人々は知らず知らずにメシアを探し出そうとしているのかもしれない。

※注:エルサレム症候群については、独紙ターゲスシュピーゲル(2011年11月21日)と「ヴェルト」(2010年8月16日)の記事を参考した。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年9月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。