『仕事の迷いにはすべて「論語」が答えてくれる』(拙著)第1章「(5)なぜ今を精いっぱい生きることが大切なのか」の「社会人になってからの十年、十五年で大きな差がつく」で、私は次のように述べました――四十歳までをしっかり生き切ることができれば、どんな人でも職場の同僚や取引先から一目置かれる人物になることができると思っている。孔子は『論語』の中で、「教えありて類(たぐい)なし」と言っている。あるいは「性、相(あ)い近し。習えば、相い遠し」とも述べている。(中略)私も、孔子の言う通りだと思う。
前者は「人間には、教育による違いはあるが、生まれつきの違いはない」といった意味で、また後者も似たような言葉で、「生まれた時は誰でも似たり寄ったりで、そんなに大きな差はない。その後の習慣や学習の違いによって、大きな差が出てくるのだ」といった意味になります。社会人として働き始めた当初は、未だ団栗(どんぐり)の背比べ状態と言えましょう。ところが10年、15年と社会人生活を続ける内に、少しずつ差が出てきます。そしてそれは40歳を迎える時、追い付けない程の大きな差となって現れるものです。ですから、誰もが一目置く人物になる為に、40歳までが勝負の期間と心得ておくべきだということです。
また、ひと月半程前に私は『天は自ら助くる者を助く』と題したブログで、次の通り述べました――何らかの言動やアクションが時代の先を行き過ぎたらば世に狂人扱いされないまでも、誰も相手にしてくれない・誰も分かってくれないといった状況になりがちでしょう。そして何時の間にやら、その人の支援者が誰もいなくなるといったことにもなり得ます。他方で人に分かって貰える場合もあります。
一目置かれる人というのは、その言動が的を射ていると沢山の人が認めます。上記のように一時代言動に一時的なずれが生じたとしても、それが現実のものとなった時必ず何処かの時点で再評価されて行くのだろうと思います。また全くの言行不一致を繰り返す人、一言で言えば「言うだけ番長…言葉ばかりで結果が伴わない人」の類は対象外でしょう。自らの言をきちっとやり抜くからこそ、人物だと大勢が認めるようにもなるわけです。
何れにせよ、自分自身を磨くということを怠り権力欲・金銭欲・物欲等々と欲にまみれてしまった人、それもある程度年齢を重ねた上で私利私欲の海の中にどっぷりつかりきってしまった人が、一目置かれることはありえません。
やはり、他を利するという気持ちを終始一貫して持ち、衆人が最終「あの人は中々立派な人だ」と思えるような状況でなければ駄目だと思います。常に自身の言動を自らで厳しく律し、誠心誠意「世のため人のため」尽くそうと全力投球してやり遂げる人物こそが、多くの人に一目置かれるのではないでしょうか。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年9月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。