東京都交響楽団×小泉和裕

9月に入って気温が急激に下がり、冷たい雨続きの日々になった。連日ミューザに通っていた8月上旬が遠い過去のように思える。8月下旬は、オーケストラ公演をほとんど聴かなかった。諸々の精神的な事情から、そうする必要を感じていた。9月4日の都響と小泉さんの芸劇は、久々のオーケストラ鑑賞となった。

ⒸFumiaki Fujimoto

シューベルト『交響曲第5番』の溌剌とした始まりから、全身が癒される心地がした。オーケストラの音が苦痛でなく、純粋な歓びであることを再認識し、嬉しかった。都響のアンサンブルは毎回素晴らしい。すみずみまで準備され、充実したリハーサルを想像した。都響は今年に入ってからも「大地の歌」を始め、8月の「マイスタージンガー」まで色々な公演が中止(延期)となったが、準備していたものが世の中に出ないのはオーケストラとして大きなストレスのはずだ。小泉マエストロとの共演では、いつも都響の凛々しさや雄々しさに感動する。この日のシューベルトは、優雅さの中に憂愁があり、都響の響きの眩しい切れ端が、夏の終わりに感じる説明できない心の疼きを刺激した。

コロナで夜の灯が消えてしまってから、太陽の光を意識するようになり、太陽とともに生きることが本来の人間の生活だと思い直すようになったが、日没がどんどん早まり気温が下がるこの日々は、否応なく何かの衰え=「死」を連想するようになった。自分の肉体の死は、案外呆気なくやってくるのかも知れない。秋の感傷か、本当に心身が参っているのか。シューベルトの10代の名作にも、遠からず死の気配を聴いた。都響の知的な合奏が、明るさだけではない、裏色としてある楽曲の暗さを暗示しているように思えた。

物事を自由に、シンプルに感じることを続けたい。二期会『ルル』の公演前には毎回会場近くの花園神社の敷地の端にある、貧しい感じの「芸能の神様」の祠にそれを願った。曇りガラスのような何かが、物事を曲解させないよう、ありのままの姿を感じられるよう…迷信じみた願いが、未来を生きるための蜘蛛の糸だった。

チャイコフスキー『交響曲第5番』は、遅いテンポで始まった。音楽が連想させるのは廃墟のような樹海のような、すべての生き物がしなだれて死んでいるようなしょんぼりした世界で、暗鬱そのものだった。管楽器は息を繋ぐのが大変だったと思う。木管奏者たちの音がソリストの音のように一体化し、どのセクションも明解な歌を奏でた。情念というか念力というか、強烈な「気」の渦巻きが巻き起こり、暗鬱世界が戦闘的な世界へと成長していくさまは圧巻だった。マエストロの足は指揮台から微塵も浮くことなく、指揮姿はアルファベットの「A」の字をキープ。この音楽はエキセントリックなのではない。チャイコフスキーは『悲愴』の前から濃厚なタナトスの世界と生きていたのだと実感した。

2楽章も、遅い。ふたつの葬送音楽が続くようで、ホルンの見事なソロは死者を迎える天国からのサインに思われた。木管の明るい響き、弦の優しさが続き、それらが銀河のような渦巻きになり、変則的で巨大なチャイコフスキーの宇宙が創り出された。生まれたときから作曲家とともにあった不安、創造と引き換えに与えられた人生の悲惨を連想した。将棋で何億手も先を読む人工知能は、将来名曲を作曲するのかも知れないが、滅びゆく肉体を持たないものが、この泥のような生きることの不安や葛藤までも書くことが出来るだろうか。シューベルトもチャイコフスキーも、その後作品が繰り返し演奏されたことに比べたら、肉体があったのは一瞬のことで、どちらの人生の終わりも悲惨だった。チャイコフスキーは国葬されたが、それが何だと言うのだろう。

3楽章のワルツの始まりが、奇矯に感じられた。今まで感じたことのないリズムの吃音で、バレリーナがこの曲で踊ろうとしたら、トウシューズで躓いて転んでしまうと思った。ワルツの優雅さは見掛けの厚化粧で、本当は死の舞踏だったのではないか。小泉さんは明らかに、普通でない「仕掛け」をこの5番に盛り込んでいた。というより、潜在的にあるものを引き出していた。このワルツは、バラバラになりそうな世界を表現している。一拍目に時々わざとおどけたようなホルンの濁音が混じるのは、3楽章のワルツがグロテスクなものを含んでいるということのヒントなのだ。

4楽章はカタストロフィックで狂騒的で、空から無数の蛙が降ってきたようで、チャイコフスキーの「これでもか」というカオスの渦巻きの中で、オーケストラのブレない美意識が活きていた。珍しい転調を耳にすると、それがどのように出来ているのか熱心に学んだというチャイコフスキーの「工夫」は、大伽藍の崩落のような最終楽章でうまく使われていたが、何かの癒しのための創作が、逆に傷口を広げるような痛みに転じているような「転倒」も感じられた。死の予感、死する運命が至る瞬間に満ち満ちていて、生きている人間がこれほど死にまみれていたら、辛くなかったはずはないと同情した。

その感覚が、生きている自分には必要で、ひやりとする痛みこそが唯一の癒しである。生まれたときから何もかもが不安で、「お前が不安に思っていたことは、こういうことだろう」と音楽から言われると「そうだ。その通りだ」と答えるしかない。

夏の疲れを微塵も感じさせない都響と小泉さんの「5番プログラム」は圧倒的だった。マエストロのソロ・カーテンコールでは、小泉さんはコンマスの山本友重さんも引っ張ってきた。4楽章での山本さんの熱演する姿も忘れられない。都響の名演からは、言葉にならない友情のようなものを感じる。この日はチャイコフスキーにも友情を感じた。忘れがたい9月の演奏会。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年9月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。