ゼロ・テロリスト政策の挫折で考えるゼロ・コロナの不可能

篠田 英朗

2001年の9・11テロ事件から20周年の日を迎えた。消滅したはずのアフガニスタンのタリバン政権が、20年かけて復活した。その衝撃が、国際社会を覆い続けている中で迎える9月11日だ。

9・11テロ事件  Wikipediaより

思えば、アメリカの20年にわたるアフガニスタンでの軍事作戦は、いわば「ゼロ・テロリスト」の発想にもとづくものであった。9・11テロ事件の首謀者だけでなく、テロ組織のネットワークも根絶やしにしなければ、テロ攻撃はなくならない。このような考えに基づいて、9・11テロ攻撃の首謀者であるオサマ・ビン・ラディンを追跡するだけではく、組織体であるアル・カイダの壊滅を目指し、さらには温床となっていたタリバン政権の除去も目指した。

結果的にこの「ゼロ・テロリスト」政策は、過大な負担を長期に渡ってアメリカ及び同盟諸国に課し続けた。20年後の今、「もう無理だ」、と音をあげてアメリカが完全撤退し、あまりにもあっけなくタリバン政権が復活した。

今後も、アメリカだけでなく、国際社会全体が、アフガニスタンが再びテロ組織の基地にならないように努力をし続けていく。広い意味での「テロとの戦い」は、全く終わっていない。

だが、そもそも復活したタリバン政権それ自体が、テロリスト集団である。国連安全保障理事会の決議により全ての国連加盟国に遵守の義務がある制裁の対象になっている者が、新たなタリバン政権の中に多数入っている。アメリカ政府の単独制裁の対象者も多く、これまで暗殺作戦の対象として付け狙われてきた者たちもいる。たとえば最強硬派である内務大臣に就任したシラジュディン・ハカニや、防衛大臣に就任したモハメド・ヤクーブ・ムジャヒドらが、未だに表に顔を出す機会も避けているのは、アメリカの暗殺作戦の再開を恐れているからのようにも見える。最高指導者の地位にあるマウラウィ・ハイバトゥラー・アクンザダに至っては、未だに居場所もわからず、すでに以前のアメリカの空爆で死亡しているという観測も根強いにもかかわらず、その名前がタリバン政権の重しとして機能している。

アメリカは、より悪しき存在であるアル・カイダやイスラム国のような国際テロ組織がアフガニスタンを基地にして暗躍するのを、タリバン政権が防ぐように、「お願い」をする立場に陥っている。したがって今さらタリバン要人を暗殺する作戦などを遂行することはできない。だが武力で政権を奪取すると、制裁対象だったテロリストであっても次々と国際社会に認められていくようになる、などといった悪しき事例は、簡単には作れない。苦悩が続く。

タリバンは変わった、タリバンに変わってもらおう・・・、状況が苦しくなったからといって、身勝手な希望的観測を並べ立ててみたところで、テロリスト集団がアフガニスタンという一つの国家を実効支配する政府になってしまったという衝撃的な事実を打ち消すことまではできない。

20年にわたる「対テロ戦争」を遂行してきた国際社会は、今やテロリストとの共生を強いられている。少なくとも共存していくための最善の「抑制管理」の方法を模索するように強いられている。いわば「ゼロ・テロリスト」政策の破綻を受けて、「ウィズ・テロリスト」政策への転換を迫られているのである。

これは苦痛に満ちたプロセスだ。リスクも大きい。だが20年かけても根絶できなかったのだ。現実を受け入れていくことなくしては、前に進むことはできない。

「対テロ戦争」の挫折は、国際社会の複雑な事情を反映した特殊な話題であるかのようにも聞こえるかもしれない。だが考え方の基本は、たとえば新型コロナ対策などの場合であっても同じだろう。

新型コロナの根絶が不可能であることに、もうほとんどの人々が気づいている。甚大な犠牲を払ってロックダウンを繰り返し、必死になってワクチンを打ちまくっても、新型コロナを根絶できるという見通しは立たない。少なくとも近い将来に「ゼロ・コロナ」を達成することが不可能であることは、火を見るより明らかである。

超大国の威信かけた軍事介入をしたからといってテロリストを根絶することができるのか、という疑問は、2001年の「対テロ戦争」の初期段階から存在した。それでも最大限の努力は払わざるを得なかった。人間の生死にかかわる事柄だったからだ。

同じように、新型コロナ対策が世界的に行われ始めた2020年の春の時点から、ウィルスを根絶することなどできるのか、という疑問は存在した。それでも最大限の努力は払わざるを得なかった。人間の生死にかかわる事柄だったからだ。

しかしエボラ出血熱のように極めて死亡率が高いがゆえに、隔離を通じた根絶の道筋も立てやすい感染症であってすら、何年にもわたって撲滅宣言と再発見が繰り返されている。致死率が一定の低さであるがゆえに、極めて高い感染力を制御できない新型コロナが全世界の隅々にまで広がってしまい、画期的なワクチンで対抗しても集団免疫の達成は無理であることが判明してしまっている今、このウィルスを撲滅する方法は、少なくとも現実の政策立案で目標にできるようなレベルの事柄ではなくなってしまっている。

確かに、ウィルス撲滅の不可能性は、苦痛を伴う認識である。簡単には受け入れることができない苦悩を伴う。だがそれが不可避であるならば、現実を受け入れることしか、前に進む方法はない。

そもそも「ゼロ・コロナ」が不可能だからこそ「ウィズ・コロナ」といったメッセージも、一年以上前から発せられてきたのではなかったか。そもそも日本では、新型コロナの初期対応の段階から、撲滅は極めて難しいという理解に依拠した「抑制管理」政策がとられてきたのではなかったか。

厳しい現実を見据えたうえで最善の「抑制管理」を目指す「日本モデル」の意味は、しかし、「ゼロ・コロナ」が達成できないのは政権担当政党の無能と怠慢のせいであると糾弾する左翼勢力や、無責任な煽りを繰り返して日銭を稼ぐメディアだけでなく、もっともらしい抽象理論を振り回してマウンティングを繰り返すいわゆる専門家と呼ばれる人々などによってかき消されてしまった。苦痛に満ちたプロセスであっても「抑制管理」政策を精緻化するしか残された道はない、という現実判断に根差した政策議論は、時間がたてばたつほど、かえって忌避されるようになってしまった。あるいは不謹慎な話題だという烙印を押されて、封印されてしまった。

だが、答えを出すことが不可能であること知りながら、答えを出せない人を糾弾してストレス解消することだけを続ける生活は、あまりに非建設的であり、不健康である。

国際社会が「ゼロ・テロリスト」から「ウィズ・テロリスト」への苦痛に満ちた政策転換を迫られている中で迎える2021年の9月11日は、あらためて「ゼロ・コロナ」から「ウィズ・コロナ」への政策転換の意味について考え直すのに良い契機であるかもしれない。