たった10年でテロ組織の巣窟に:西アフリカで殺害されたスペインの2人の記者

 

ロベルト・フライレ(左)とダビツゥ・ベリアイン(右)ESPAÑA, 2 PERIÓDISTAS ASESINADOS EN BURKINA FASO. 10-09-2021.

ブルキナファソで殺害されたスペインの2人の記者とNGOのアイルランド人は密猟のドキュメンタリーを取材する目的だった。

ブルキナファソでは今年に入って850人がテロ攻撃で死亡

先月8月にも西アフリカのブルキナファソにてテロ攻撃があり47人が死亡するという事件があった。現在、テロ組織の巣窟となっているサヘル地域のブルキナファソのゴルガジ郡から25キロ離れた地点でこの事件が起きたという。8月に入ってこの地方で発生した3回目のテロ事件だった。今年に入ってブルキナファソではテロ攻撃によっておよそ850人が死亡している。(8月18日付「エル・パイス」から引用)。

負傷していたひとりを置いてきぼりにはできないとして2人も残った

この850人の中に2人のスペイン人ジャーナリストも含まれている。その事件が起きたのは4月26日のことであった。日本でも4月28日にそれが僅かに報道された。事件は次のような状況下で発生した。

西アフリカに位置する国ブルキナファソの自然保護区域に面した国道18号線で軍護送隊が移動中にアルカイダの傘下テロ組織ジャマーア・ヌスラ・アル・イスラム・ワル・ムスリミーン(JNIM)が彼らを襲撃。この護送部隊に同行していたスペイン人記者ダビツゥ・ベリアイン氏(43)とカメラマンのロベルト・フライレ氏(47)そして一緒に同行していたザンビア生まれのアイルランド人で野生動物を保護するためのNGO組織を設立したロリー・ヤング氏の3人が殺害された。

それからひと月が経過して、あの襲撃から助かった人たちの証言によってベリアイン氏とヤング氏の2人は避難できたのであったが、フライレ氏が負傷していて彼を一人置いてきぼりにはできないとしてその場に残ったということが明らかにされたのである。

彼らがブルキナファソでの取材に赴いた目的はスポンサーについたスペインのテレコムニケーション・オペレーターのモービースターの依頼で「密猟」についてのドキュメンタリーを製作するためであった。

彼らは人口1万5000人の都市ナティアボニにある基地から40数人の兵士が2台のピックアップトラックと20数台のオートバイに乗って早朝そこを出発。南の方に向かって15キロ進んだ午前9時頃にベリアイン、フライレ、ヤングの3氏は護衛役のひとりの兵士が同行してトラックから降りてドゥロン飛ばして上空からの撮影を開始した。正にその時、2台の車と数十台のオートバイに乗ったテロ部隊が彼らの前に現れ銃撃戦となった。

護送隊は彼ら3人を保護すべく防御の体制に入った。しかし、テロ組織の方が戦闘員の数で彼らを上回っていたので防衛の体制は崩れた。

助かった兵士のひとりがウエスト・フランス紙に証言した内容によって、アラブ語でアルカエダと書かれた黒色の旗を掲げた部隊に襲われて銃撃戦となり、それが3時間続いたことを明らかにされた。

死亡したヤング氏のNGOで働いていたスイス人ひとりを含め避難することができた他の数人が調査員に語った証言によると、当初護衛隊はテロ組織を撃退したという。ところが、テロ組織は3方面からの攻撃を続けロシア製の機関銃PKMSで攻撃して来たので護衛隊は弾薬も少なくなり後退を余儀なくさせられたそうだ。

更に証人は、ベリアイン氏とヤング氏そしてフライレ氏もトラックから降りたが、フライレ氏が負傷しているのを見た護衛隊員は彼ら2人に避難するように指示したそうだ。しかし、2人はフライレ氏を一人残すことはできないとしてそこに留まったというのである。この証言は当初ブルキナファソの前述フランス紙に伝えた公式発表とは異なっていたそうだ。というのは、公式発表によると、彼ら3人は森の方に入って護衛部隊の方では彼らの行方は不明となったと述べたというのである。

テロ組織はなぜ3人の身代金を要求しなかったのか

調査員が疑問視しているのは、テロ組織は翌日彼ら3人を殺害したことを明らかにしたのであるが、なぜテロ組織は彼らを釈放する代わりに身代金を要求しなかったのかという疑問であった。一般に捕虜の釈放と交換で身代金を要求するというのが良くあるケースだからである。

そこで調査員の方で推測しているのは、その後ブルキナファソの軍隊が彼らを追跡するようになると負傷したフライレ氏を含め捕虜3人を一緒に同行させるなると移動するのに動きが制限されると判断して彼らを殺害したと見ている。

ということで、ベリアイン氏とヤング氏は避難していれば助かっていたはず。しかし、2人とも負傷していたフライレ氏を一人残すのではなく、最後まで一緒にいることを選択したのであった。

以上はスペイン電子紙「エル・コンフィデンシアル」4月28日付と電子版「エル・パイス」5月26日付から引用した。

 殺害されたスペイン人ジャーナリストの前歴

ベリアイン氏は紙面の記者として働いていたが、ガリシア地方を代表する紙面「ボス・デ・ガリシア」に勤務していた時にイラク戦争が勃発。その取材をしたいと望んでトラックの中に隠れて密かにイラクに入国。それ以後、彼はドキュメンタリーを専門に取材することを始めたのである。

イラクでの取材のあとはアフガニスタン、コンゴ、スーダン、リビア、メキシコ、コロンビア、ベネズエラなどで取材。2009年の「コロンビア革命軍との10日間」のドキュメンタリーは賞を獲得している。また2019年の「ベネズエラでの誘拐のビジネス」はレアルスクリーン賞にノミネートされた。(スペイン紙「エル・パイス」4月28日付から引用)。

ドキュメンタリーにはカメラでの撮影も必要となるということで戦場での撮影に慣れているフライレ氏と一緒にペアーを組むようになった。フライレ氏は2012年のシリアのアレポ戦線での撮影では機関銃の銃弾が当たり救急でトルコの病院に搬送されて九死に一生を得るということも経験している。回復した後、スペインに帰国した時は彼の夫人と二人の子供から「もういい加減にして(1月5日の三賢人の)パレードの撮影でもすることだ」と窘められたそうだ。そのあとブルキナファソにむかった。(スペイン紙「ABC」4月28日付から引用)。

2014年にフライレ氏は「戦争で生存できるには本能に任せることだ。また幸運であらねばならない」と語ったそうだ。(スペイン電子紙「エル・ディアリオ・エス」4月27日付から引用)。

ブルキナファソは10年前までオアシスの国だった

「10年前までは比較的穏やかなオアシスの国とされていた。地獄とは全くない縁がなかった」「テロ組織の巣窟となってしまったサヘル地域にあるといっても相対的に落ち着いた国だった」と述べたのは2011年から2012年にかけて同国のことを報道していたエンリケ・バケリソ氏の説明だ。

2015年9月にクーデターがあったが、同年11月には選挙でロック・マルク・クリスチャン・カボレ氏が大統領に就任した。しかし、政変の後の政府は弱体化して、隣国のマリからイスラム系の武装組織が侵入して来たのを皮切りにその他のテロ組織も活動を開始して現在の治安の乱れた国に変身している。

2人の記者の遺体とヤング氏のそれもスペイン政府は軍用機を現地に送りスペインに搬送された。ヤング氏の遺体はそのあと同機がアイルランドまで搬送した。