9/9に行われたサントリーホールでの都響定期Bシリーズ。指揮者は都響初登場のベルギー出身のデイヴィッド・レイランド。緊急事態宣言中の雨模様の夜公演とあって、客席はまばらで、都響のコンサートでもこんなに人が少ないことがあるのか…と少し驚いた。聴衆の数は少なかったが、そのことによって何かが美しくなり、香しい余韻を残す貴重な演奏会となった。コンサートマスターは四方恭子さん。
フランスやスイスのオーケストラで音楽監督を務め、デュッセルドルフ交響楽団の「シューマン・ゲスト」のポストにあるというレイランドの指揮は表情豊か。大柄な身体をかがめたり話しかけるようにキュー出しをしたりし、一曲目のシューマン 歌劇『ゲノフェーファ』序曲からオケと積極的なコミュニケーションをはかっていた。全身からなんとも言えない人柄の良さがにじみ出ていて、「この人は、本当に指揮をするのが好きなんだな」と至極単純な感想を抱いた。シューマンはピアニストになろうとして挫折した作曲家だが、『ゲノフェーファ』序曲を聴くと、ピアノの装飾音のようなフレーズがオーケストラからも飛び出してくるのが興味深い。他の録音では特に感じなかったが、都響からは巻き舌のような「ピアニスティックな細かい音」が聴こえてきた。
モーツァルト『ピアノ協奏曲第24番』では北村朋幹さんがソリストとして登場。10代の頃から北村さんの演奏を聴いてきて、最近の演奏は美意識が高すぎて、教養のない自分にはよく分からないこともあるが、この夜のモーツァルトは高雅で美しかった。高級料亭の薄味の料理のように、上品で押しつけがましいところがない。もう少し地上に降りてきてほしい…と思う瞬間もあったが、音を前に突き出さないカデンツァも含め、揺るぎないポリシーでさらりと弾き切った。三段重ねにした椅子に座って弾くスタイルも、儀式めいていて神秘的だった。
後半はシューマン『交響曲第2番』。この曲はバーンスタインが死の直前にPMFを指導したリハーサル映像が心に残っている。体調の悪そうなバーンスタインが、最後の力を振り絞って学生たちを指導し、3楽章のアダージョ・エスプレッシーヴォでは「シューマンは狂って死んだんだぞ!」と大きな声を出して全員を奮い立たせていた。レイランドのシューマン2番は、激情は控え目で、その分細部に至るまで細やかな表情をオケから引き出していた。漫画家でも、描いている人物と同じ顔をして作画する人がいるというが、レイランドはそれに似て、曲のモティーフをいちいち全身で表さずにはいられない。きっと顔の表情も百面相だったのではないか。
この曲を書いていたとき既にシューマンの神経は病に侵されていて、音楽は執拗な繰り返しが多く、そのせいか偏執狂的な性格を強調する演奏も多い。反芻が多いのは、脳神経が炎症を起こしているからで、マグネシウムが足りていない。これを書いてから、シューマンの人生はどんどん悪くなる。しかし、レイランドはこの2番を悲劇的なだけの曲として解釈していなかったと思う。
ピアニストのトリフォノフに話を聞いたとき「演奏家はその作曲家をどのように愛するのかということが大切」と語ったので、これはいい表現だと思い、ダルベルトの取材のときに「あなたはどうですか?」と聞いた。ダルベルトからは「私はそういうタイプではない。そんな質問はブリジット・エンゲラーさんに聞きなさい」と叱られた。容易に「あなたはどのように作曲家を愛しますか」と聞いてはいけない、と反省した経験だった。
それでも、「シューマン・ゲスト」のレイランドには、シューマンへの愛について聞いてみたいと思わずにはいられなかった。シューマンは精神を病んで早逝したが、インスピレーションと病は切り離すわけにはいかず、人間としての欠点が音楽の個性であった。スケルツォ楽章はひらがなの「あ」の字をずっと書き続けていると、途中から何の字を書いているのか分からなくなるような世界(?)だが、書かれた音全てが、作曲家の美点であり個性であると思えた。指揮者が作曲家を全肯定していたからだ。
シューマンの交響曲を聴きながら、都響が本当に温かい音を出しているなと感じた。都響サウンドは上品で貴族的だが、冷たくなくて温かい。レイランドとのリハーサルはきっと素晴らしいものだったのだろう。オーケストラの演奏会では、音楽以外の別の「波長」も聴こえてくる。肌で感じるといったらいいか、準備も含めてこのコンサートがどのようなクオリティのもとに本番を迎えたのか、なんとなく伝わってくる。
そのクオリティこそが、音楽の歓喜を完成させる最後のヴェールで、後半は3楽章から熱くこみ上げてくるものがあった。4楽章のはじまりはモーツァルトを思わせる。オペラにこんなフレーズがよく出て来る。弦も管も自由で伸びやかで、クラシック音楽が本来もつ長所は、こんなふうに広い場所に風のように広がっていく感覚であると再認識した。
レイランドの健全さ、人間としてのまっとうさがシューマンを癒している。指揮者が凡庸というのではない。2014年にニューヨーク・フィルが来日したとき、コントラバス奏者の岡本さんが「マゼールは天才で、コミュニケーションをとるのにお互い苦労した。ギルバートは人間的で、意志疎通が楽になった」と語っていたが、指揮者にはそのように二つのタイプがいる。プロのオケならどちらのタイプも経験しているだろう。
大きな音楽だったが、聴衆の数は少なく、この素敵な時間が「小さな音楽会」として終わるのは何だか嫌だな…と思っていたら、いつまでも拍手が続いて指揮者が再びステージに呼び出された。レイランドは少し驚いていたようだったが、胸に手を当てて喝采に感謝していた。レイランドのロベルトへの友情が、指揮者と聴衆との友情にもつながった美しい瞬間だった。
編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年9月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。