日本フィル × 山田和樹

日フィルと山田和樹さんのサントリー定期。既に色々な方が色々な感想を述べられているように、大変センセーショナルなコンサートだった。前半はショーソン『交響曲 変ロ長調』後半が水野修孝(1934-)『交響曲第4番』。数日前の芸劇より人が少ないのは、感染症でチケット販売に制限がかかったのか、芸劇のほうが曲に人気があったせいか。二つのコンサートは、ある意味連作のようにも感じられたので、サントリーと両方聴いた人は幸運だった。

前半のショーソンは響きも分厚くカロリー高めで、「これぞ日フィル」といった感じの、ラザレフ将軍に鍛え上げられた雄々しいサウンドがホールを埋め尽くした。ヨーロッパのたくさんのオケを知っている山田さんだから、もっと「フランスっぽく」仕上げることも出来たはずだが、正指揮者は日フィルにしかない味わいもよく知っている。解説に「作曲家はワーグナーの影響を受け…」と書かれるのを読むまでもなく、ワーグナーの蒸し暑さが滲みだし、ワイドでドラマティックな爆音クラシックが繰り広げられた。ところどころの音のほつれも野趣といった味わい。ショーソンの室内楽はフォーレみたいなのに、交響曲となると男臭く(?)なるのは、人間に二面性があったからだろう。20世紀を待たずして1899年に亡くなったショーソンの謹厳さと、無意識のうちにそれを超えたいという情熱が聴こえた。フランスものといえば、山田さんはドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』も振りたいと以前語っていたが、このショーソンを聴いて「ペレアスも早く実現するといいのに」と思った。

後半の水野修孝さんの『交響曲第4番』はインパクトが大きく、終演後は前半のショーソンがほぼ頭から飛んでしまった。

第1楽章のはじまりは武満っぽい雅やかな和声で、極楽鳥が星型の庭に舞い降りてきた感じ。多くの現代音楽はこんな感じで漂うように始まって、特に何も語らないまますぐに終わってしまうが、冒頭の響きから「これはもっと骨太な感じがする」と予感させた。1楽章の終わりは不穏で、象やライオンや猿や森の小動物たちが、いっせいに狂気にふれて悲鳴をあげたような様子を想像した。
第2楽章は弦楽器のソロが美麗で、ラフマニノフの交響曲2番にも似た抒情性が溢れ出し、作曲家には語りたいことがたくさんあるのだと感じさせた。水野修孝さんの作品を意識的に聴くこと自体が、初体験だった。曲自体は初演ではなく、2003年に東京交響楽団が初演し、CD化もされている。

声にならない驚きがホールにどよめいたのは第3楽章で、レクイエム的な癒しのハーモニーを奏でていた弦にふっと乗り移るように、ステージ奥でスタンバイしていたピアノが、急に饒舌なメロディを語り始めた。氷の塑像がいきなり動き出して、フレンドリーに握手を求めてきた感じだ。瞬時に、この交響曲第4番は、先日のホルストの『惑星』よりよほど『惑星』というタイトルが相応しいような気がした。温度も重力も質量も公転周期も違う天体たちは、それぞれ別次元の天体の音楽を奏でている。1楽章と3楽章は、水星と木星のほど違っていた。

3楽章は2楽章よりも「ラフマニノフっぽい」感じもした。またしても配信で復習をしているが、録画よりもライヴのほうがやはり衝撃が大きい。3楽章の終わりは星型の庭から空に吸い込まれるような幽玄な余韻が漂った。

水野さんのプロフィールを見ると、ミュージカルや校歌やジャズ、モダンダンスのための曲など多岐にわたる音楽を書かれている。youtubeで高橋アキさんが弾かれている曲はシェーンベルクを彷彿させた。いかにも現代音楽っぽい曲(!)も書けるのだ。2003年、69歳のときに書かれたこのシンフォニーには、何か作曲家の人生を賭けた戦いのような意味があったのではないかと想像する。

カテゴライズという病について、思わないわけにはいかなかった。カテゴライズというシステムは、少なからずマイノリティを傷つける。2020年になって人類は急に多様性の時代を迎え、何だかよく分からないけれどカテゴライズを緩くしようという動きが巻き起こった。最初にジェンダーについてのデリカシーが急速に高まった。だが、カテゴライズという「圧力」は、そんな昨日今日のことでは収まりがつかない。海のものか山のものかはっきりしろ、と脅しをかけてくる。

現代音楽と、ミュージカルや色々な音楽をたくさん書いてきた水野さんは、このシンフォニーで「クラシックを聴きに来た」人間の深層心理にライトを当てた。すごいシナリオで構成されている。「カテゴライズできないから腹が立つ」なんていう感想は無粋だ。作曲家はわざと書いている。ひっそりと「すべて」を管理しようとする鬼に「わーいわーい」と豆をぶつけているのだ。真実を言うために『交響曲第4番』は、多分大げさな姿をしている。シンフォニー4番は神の道化だ。まるでニジンスキーだ。

フィナーレ楽章ではパーカッションがワイルドに咆哮し、マンボっぽいリズムでオケが踊り始めた。山田さんも珍しくところどころジャンプしていた。それでも、変拍子だらけだしアクセントはころころ変わるし、演奏の難易度は高い。聴いているほうは楽しい。音楽はスピーディに展開し、幽霊が肉体を得たようにオケから縦横無尽なジェスチャーを引き出していた。サンバのようなマンボのような面白いリズムで、20世紀の歌謡ショーの趣を呈したかと思ったら、再び不協和音に飲み込まれて曲は唐突に終わった。

譜面台に乗っかった大きくて分厚いスコアが、不思議な物体に見えた。この印刷物の中に、祝祭とも怨念ともつかない作曲家の「すべて」が入っている。このスコアを入れた宇宙船を打ち上げたら、数億光年先の地球外惑星の人々はどのように解読するだろうか?

ベートーヴェンもストラヴィンスキーも作品はスコアとなって永遠に残る。だから作曲家になりたかった、と吉松隆さんは言っていた。吉松さんはご自身が魚座であることを気に入っているが、なんと水野さんも魚座だった。12星座の最後の星座である魚座はボーダーレスで永遠の子供で、万物は最初からひとつだったということを肌で知っている。

自分の書いたものを熱心に読んでくれるのは作者にとって嬉しい。山田さんが『交響曲第4番』をこのように「読んだ」ことは、水野さんにとっても大変嬉しいことだったと思う。この世界の中にいて、芸術家はどう振る舞うべきか。「神の道化」という言葉が再び脳裏をよぎった。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2021年9月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。