「死者の日」に思う

オーストリアでは10月30日(土曜日)、31日(日曜日)そして11月1日(月曜日)は3連休だった。1日はカトリック教の「万聖節」(Allerheiligen)」で休日だ。1日は聖人を追悼する日、2日は「死者の日」(Allerseelen)だ。2日は休日ではないので、1日の万聖節に先祖や家人の墓場を参る人が多い。幸い、秋の穏やか日だったので、墓地は花を手にする人々で溢れていた。

万聖節に墓場に参る人々(2021年11月1日、ウィ―ンにて)

著名な実業家であり、作家の松本徹三氏の新著「2022年地軸大変動」の中で登場する異星人のバンスルは、「『死』とは『生物としての死』ではなく、復活することのない『意識』です」と語っている。完全な無の世界だ。ただ、死者は生物的な死を迎えた後も語りだす。生きている時、寡黙だった人間が死んだ途端、饒舌になるケースもある。死者と語り合いたいために多くの人々が墓場を訪れるのだ。

死者の意識は復活するのではなく、肉体的な拘束がないため、生きていた時より活発で鋭敏だ。それゆえに、まだ生きている人間にとって死者が語る内容は心に響くのだろう。墓石の前で涙を流す人々の姿も見られる。

シャーロック・ホームズの著者コナン・ドイルは亡くなった息子ともう一度会いたいと思い、当時、流行っていた心霊科学の世界に入っていった話は有名だ。死んだ後、生きている時よりその輝きを放つ人がいる。だから、死んだ家族や友人に会いたいという衝動を抑えることが出来ない人がいるわけだ。

肉体的な衣を捨てた後、すなわち、死を迎えた時、生きていた時には埋没していた意識が蘇ってくる。バンスルに対抗するつもりはないが、死とは、本源の意識を取り戻すプロセスを表現したものではないか。その意味で、人は死んで初めて一人前の人間として生きて行く。若い青年に向かって「この若造がなにを偉そうなことをいうか」と叱咤する老人がいるが、「死んだこともない人間が何を一人前のことをいうか」ともいえるのだ。臨死体験をした人がその前とは全く異なった生き方をする。臨死体験は死の疑似体験だが、「死」という体験が大きな影響を人間に与えることが分かる。

デンマークの王子ハムレットは「あの世から戻ってきた人間はいない」と豪語したが、死者は常に復活し、この世に留まったり、あの世にいって生きている。幽霊とか亡霊といった表現は死者の人格を傷つける表現だ。

この世とあの世の壁を崩したのがあのイエスだ。世界最大の宗教、キリスト教は「復活したイエス」から始まった。この世で生きていた33年の生涯は誤解と中傷誹謗の日々だった。それが十字架後、激変した。「死」を体験し、「復活」したイエスという一人の人間が世界史を変えていったのだ。

表現を変えるならば、イエスすら「死」というプロセスを経なければ、メシアとしてその使命を発揮できなかったことになる。これはイエスの責任というより、イエスを迎え入れるべき側の問題があったからだが、結果として言えることは、イエスは「死」を通じて、人類に生きる目的、神の愛を教えた。「死」は死者だけではなく、まだ生きている人間にも大きな意味があることが理解できる。

ちなみに、死んだ後、生き返った人間は新約聖書の世界では、イエス1人ではない。イエスの友人ラザロは死んだ4日後に蘇り、そして病死した12歳の娘もその父親の信仰ゆえに復活の恵みを得ている。すなわち、新約聖書の世界では少なくとも3人、死から生き返っているのだ。

当方は米TV番組「スーパーナチュラル」が好きだったが、そこでは死んだ人間や地獄に行った人間が蘇るシーンが何度も出てきた。死んだ人間と生きている人間の垣根は現代人が考えるほど明確な一線がないのだ。「生きているのは名ばかりで、実は死んでいるのだ」といった新約聖書「ヨハネの黙示録」第3章の言葉は別の意味で成就されているのを感じるほどだ。

このように書く当方もまだ死んでいないから、大きなことは言えない。今年、大切な先輩を亡くした。短い期間だったが、当方はその先輩から記事の書き方などジャーナリストとしての基本を教えてもらった。仕事では厳しかったが、常に人間としての温かみを感じる先輩だった。マドリード特派員として駐在された時、ウィーンまで訪ねてきてくれた。先輩に会った最後の機会となった。

その先輩は亡くなったが、当方の意識の世界では常に生き生きとしたジャーナリストとして健在だ。当方が変な記事やコラムを書けば、「なんだこれは、一度と死なないとしっかりとした記事を書けないのか」と言われているように感じることがある。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年11月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。