ニュルンベルクのマイスタージンガー

小田島 久恵

2020年夏、2021年8月と二度の上演延期・中止を経て、11月18日に初日を迎えた『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を新国立劇場で鑑賞した。

ワーグナーの5時間のオペラをこのように「愛と優しさに包まれて観る」日が来るとは予想していなかった。歌手やオーケストラ、舞台スタッフは、オペラの本番のために入念な準備をするが、それが「産まれえなかった」ときの失望は、鑑賞者の予想を遥かに上回る。新国では、震災で初日直前に中止となったプッチーニ『マノン・レスコー』が4年後の2015年に上演されたが、そのとき出演者が特別な感動をもって演奏していた姿が目に焼き付いている。

今回はそれより苦しい難産中の難産。大野和士オペラ芸術監督と東京都交響楽団は前奏曲から密度の濃い演奏を聴かせ、大胆なテンポの緩急が「ようやく生まれた」オペラの躍動感をあらわしているようだった。前奏曲だけで、この後の5時間が素晴らしい時間であることが約束されていると思えた。

ニュルンベルクのマイスタージンガー プログラム表紙画

幕が開くと、16世紀の装束をした合唱が手を振り上げて歌い始めた。その瞬間、合唱一人一人の姿がこれまでに感じたことのないほど神々しく見えたのではっとした。一人一人の歌声がはっきりと聴こえる。これは本当に特別な上演だった。舞台(聖カタリーナ教会)に向かって席がしつらえてあり、現代の服を着た人々が客席に背中を向けて合唱を聴いている。劇中劇のような設定で、バックステージを仕切る人々は21世紀の現代人として描かれている。

1幕では、ハンス・ザックスの弟子ダーヴィッドを演じたテノールの伊藤達人さんの活躍が目覚ましかった。ダーヴィッドは冒頭から数十分間、八面六臂の大活躍でとにかく歌い続ける。さまざまな人間関係が交差するポイントとなる役で、「歌合戦には出ないけど」と言いつつ、美しい声で活気に溢れた歌をたくさん歌った。レーネ役の山下牧子さんとの絡みも可愛らしく、伊藤さんのダーヴィッドが忽ち大好きになった。技術も素晴らしいが、舞台人としての底力がとにかく凄い。

騎士ヴァルターを演じたシュテファン・フィンケは、初日はやや控えめだったが、バランスを取りながら終始勇敢だった。2回目以降にぐんぐん良くなりそう。海外からの歌手たちは移動・待機期間含めて16日間は全く歌声を出せない。身体が楽器なのだから、これが如何に普段と違う状況か想像する。そんな中、ハンス・ザックス役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは、最初から最後まで余裕しゃくしゃくだった。これは、本当にいい役だから、役からもパワーをもらっているのだろう。マイヤーの声はいつまでも聴いていたい心地よい「父性」の声だった。

富豪ポークナーの娘で、歌合戦の「賞金」にされてしまうエーファは、林正子さんが歌われた。太陽のような林さんがエーファを歌ってくれたことで、物語に晴れやかさが加わり、思いがけないユーモアも溢れ出した。エーファは自立した「恋する女性」で、自分が好きになったヴァルターに歌合戦で優勝して欲しい。女性が選ぶ男性こそが、進化した男性だ。林さんが過去に演じられたR・シュトラウスの『ダナエの愛』を思い出した。女性が少ししか登場しないこのオペラで、林さんの天真爛漫さが花のように眩しかった。

ヴァルターが乱入する歌合戦では、ライバルの男性歌手たちがぞろりと赤い椅子に着席するが、皆三つ揃いのスーツを着ていて、まるで国会議員のようだ。官僚的なベックメッサ―をアドリアン・エレートが憎々しげに好演した。人の歌の欠点をあげつらう嫌味な役だが、エレートはこの役のエキスパートでもあり、得々と楽しげにやっていた。後半での自己破壊的な演技も良かったが、かぼちゃズボンの吟遊詩人のコスチュームを着てマンドリンを弾き出したときは、ベックメッサ―という「世事を知らぬ男」が気の毒になった。愛も恋も女心も知らない。そんな四角四面なオタクの弱みをワーグナーは容赦なく戯画化して描く。

都響のサウンドが、ひどく心に触れてきて、聴いているとどんどん元気になり、長いオペラもあっという間に感じられた。都響と大野さんは、新たな蜜月時代に突入しているのだろうか。それにしてもこの包まれるような優しさはどこから来るのか。ハンス・ザックスの性格からか。私には、ハンスの寛大な心がそのままピットのすべての音楽に反映されているように聴こえた。靴屋で詩人のハンス・ザックスは実在した人物で、膨大な詩と劇を書き残している。

バリトンのトーマス・ヨハネス・マイヤーは、体温を感じさせる役作りで聴衆を魅了した。ワーグナーの台本も、ハンス・ザックスへの月並みならぬ愛に溢れている。靴屋というのは仮の姿で、人のふりをした神のようだ。マイヤー自身も、この役に愛着を覚えているのは明白で、聴いている自分も、男に生まれたならハンス・ザックスの役を歌いたいと思った。そんな「妄想」を抱かせるほど、この人物は魅力的だったのだ。

ハンス・ザックスが「型破りだが何か特別なものを持っている」ヴァルターにマイスター流儀の歌を教える3幕の場面は特に心に残った。拙い子供のクレヨン画のような木の絵が背景に描かれていて、そこでヴァルターは自分の歌心からこんこんとあふれる詩を歌う。ハンスはそれを書きとって添削する。ヴァルターの素直さが、私が知っている日本の歌手たちの心に思えて、彼らもこうやって師から歌を学んだのだ…と想像して胸が熱くなった。自分自身は、このようにして師から何かを学ぶという経験をしたことがない。

休憩含めて6時間の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が、晦渋でも退屈でもない、魂が癒される楽劇に聴こえたのは、演出家のイェンス=ダニエル・ヘルツォークの洞察的な解釈も大きい。あらゆる職業の中で、オペラ演出家ほど危険で、それゆえに尊敬に値する仕事はない。結局のところ、劇場では演出家の脳内を経験する。

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、形式主義が形骸化すること、成熟したコミュニティの中で異端は疎外されることを表現している。ヘルツォークは楽劇のエッセンスを抽出し、皮肉ではない愛を吹き込み、ラストの瞬間には「ワーグナーのその先」も鮮やかに描き出した。偶像崇拝が行きつく先はファシズムであり、未来を知るエーファはそこからヴァルターを引きはがす。演出家はこんなふうに、更新されていく「人間性」というものを鮮やかに描き出すことが出来るのだ。劇場からさらに外に飛び出していくオペラの可能性も感じられた。あと4回公演が行われる。


ニュルンベルクのマイスタージンガー<新制作> 

会場
新国立劇場 オペラパレス

公演日程
2021年11月18日(木)
2021年11月21日(日)14:00
2021年11月24日(水)14:00
2021年11月28日(日)14:00
2021年12月 1日(水)14:00

予定上演時間
約5時間55分(休憩含む)

スタッフ
【指 揮】大野 和士
【演 出】イェンス=ダニエル・ヘルツォーク
【美 術】マティス・ナイトハルト
【衣 裳】シビル・ゲデケ
【照 明】ファビオ・アントーチ
【振 付】ラムセス・ジグル
【演出補】ハイコ・ヘンチェル
【舞台監督】髙橋 尚史

キャスト
【ハンス・ザックス】トーマス・ヨハネス・マイヤー
【ファイト・ポーグナー】ギド・イェンティンス
【クンツ・フォーゲルゲザング】村上 公太
【コンラート・ナハティガル】与那城 敬
【ジクストゥス・ベックメッサー】アドリアン・エレート
【フリッツ・コートナー】青山 貴
【バルタザール・ツォルン】秋谷 直之
【ウルリヒ・アイスリンガー】鈴木 准
【アウグスティン・モーザー】菅野 敦
【ヘルマン・オルテル】大沼 徹
【ハンス・シュヴァルツ】長谷川 顯
【ハンス・フォルツ】妻屋 秀和
【ヴァルター・フォン・シュトルツィング】シュテファン・フィンケ
【ダーヴィット】伊藤 達人
【エーファ】林 正子
【マグダレーネ】山下 牧子
【夜警】志村 文彦
【合唱指揮】三澤 洋史
【合 唱】新国立劇場合唱団、二期会合唱団
【管弦楽】東京都交響楽団
【協力】日本ワーグナー協会
【制作】新国立劇場、東京文化会館、ザルツブルク・イースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場