靖国参拝を外交問題にすべきではない(屋山 太郎)

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会長・政治評論家 屋山 太郎

自民党総裁選にあたって、高市早苗氏(現政務調査会長)が「当選したら、靖国神社に参拝する」と宣言した。戦いで亡くなられた方を国家が追悼するというのは、国事で最大の行事だ。それが1985年中曽根康弘首相の靖国参拝を最後に途絶えている。86年に後藤田正治官房長官の中止説明が発表され、公式参拝が終わった。

85年の中曽根参拝に先立ち、首相は識者を集めた「靖国懇談会」をつくり「公式参拝は合憲」とする答申を得た。にもかかわらず翌年に中止というからには裏がある。裏の事情とは、中国の胡耀邦主席筋から中曽根氏に「胡主席が困った立場になる」との情報がもたらされたからだという。中曽根氏も後藤田氏も中国と友好関係を保つには政界の人材の交流が厚くなって、多くの人脈を作るしかないと考えていた。私は「中国の政治はほぼ一人の判断によって決まる。そもそも政界に民主主義はないのだから、主席だけを取り込んでも意味がない」と反論したものだ。しかし中曽根氏に限らず旧制高校を卒業した層は、無闇に中国を尊敬しすぎていた。中曽根氏が公式参拝をとりやめた理由について後藤田氏は「昨年の公式参拝はA級戦犯への礼拝という疑念を生んだ。近隣諸国に配慮して8月15日の公式参拝は見送る」との談話を発表した。

靖国懇で公式参拝問題の答申を得たのちに、中止を言うのは「A級戦犯」が祭られているからだという。この言い分は“公式論議”を超えて日本の祭祀の意味を根本から崩すものだ。あの神社には「ヤツが祭られているからオレは行かない」というヘソ曲がりが世の中にいるかもしれない。しかし「“A級戦犯”を祭るな」と政府が言ったことは、神道の芯に関わる内容の発言だった。

日本人の常識では「死ねば神様」である。神道には経典や具体的な教訓はなく、開祖もない。八百万の神、御先祖、自然や自然現象などに元づくアニミズム・民族宗教である。自然と神は一体として認識され、神と人間とを結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社、聖域とされる。

そもそもA級戦犯というのは、日本の裁判で決まったのではない。連合国が勝手にやった裁判であり、インドのラダビノール・パール判事は裁判自体が無効だと主張した。日本は平和条約を受け入れたが、その後、国内で“戦犯釈放”の大運動が起こり、約4千万人の署名が集まった。当時の日本の人口約8千万人。まさに国民的合意である。当事国との交渉を経て受刑者は釈放され、死者の全員が靖国に祭られ、遺族年金も支払われることになった。この一連の動きの中には7人のA級戦犯も含まれている。

軍人以外のシベリア抑留中の死没者、沖縄のひめゆり部隊、潜水艦に沈められた学童疎開船の1500人の学童や、樺太・真岡の女子電話交換手たちも含まれている。公式参拝中止の真因は、突き詰めれば中国問題なのだ。高市氏の「外交問題にしない」というのは問題の神髄を突いている。

(令和3年12月8日付静岡新聞『論壇』より転載)

屋山 太郎(ややま たろう)
1932(昭和7)年、福岡県生まれ。東北大学文学部仏文科卒業。時事通信社に入社後、政治部記者、解説委員兼編集委員などを歴任。1981年より第二次臨時行政調査会(土光臨調)に参画し、国鉄の分割・民営化を推進した。1987年に退社し、現在政治評論家。著書に『安倍外交で日本は強くなる』など多数


編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2021年12月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。