新国立劇場オペラ「蝶々夫人」

小田島 久恵

新国『蝶々夫人』の初日(12月5日)を鑑賞。舞台に長い階段が登場する栗山民也演出は2005年に制作されたもので、個人的には2011年、2014年、2017年、2019年の4回を観ている。2014年に指揮をしたケリー=リン・ウィルソン(後から知ったがMETのピーター・ゲルブの奥さんだった)の繊細な指揮が大変印象的だったが、装置と演出が派手ではないので、自然と音楽の印象の方が強く残っているのだ。

今回、5回目を見て、現代には色々な読み替えや深読みがある中で、かなり「無駄を削ぎ落とした」抑制の効いた演出だと感じた。『蝶々夫人』を国際問題や差別問題にしてしまうと、果てしなくラブストーリーから逸脱する。それも好き好きだが、もうひとつ新しい潮流(プロパガンダ的でない)が出てこないと、新演出にする意味はあまりないと思う。

そんなことを考えながら、下野竜也さんの指揮がとてもロマンティックで美しいので聴き惚れていた。現代音楽や現代オペラが得意な下野さんだから、プッチーニももっと前衛寄りに振るのかと思ったら、ヒロインの若さ、可愛らしさに寄り添ったサウンドで、容赦なく彼女に襲い掛かる運命の表現は思い切り重々しい。そのコントラストが最後まで素晴らしかった(東京フィル)。

一幕はまるでシームレスな絵巻物だ。次々と登場人物が出てきて、巻物の中の人々が魔法で動き出すアニメーションのようにも感じられる。主役の蝶々さんが登場するまでも色々あり、ピンカートンとシャープレスのウイスキー乾杯のデュエットなんかがある(実はここでシャープレスがピンカートンに「軽率な真似をするな」と警告する旋律はとても美しく、3幕で変形して再現される)。蝶々さん登場、アミたちの合唱、ゴロー、神官、結婚式、ボンゾ、親戚の退場…と、何もかもがめまぐるしい。「これはコメディアデラルテの伝統と関連づけられる」と高速の指揮をしたのは2017年の二期会公演でのガエタノ・デスピノーサだったが、下野さんは歌手の呼吸に合わせた自然なテンポで、ヒロインを大切にした音楽を作っていた。

印象的だったのは、「教会へ一人で行って、キリスト教に改宗してきた」とバタフライが告白するときの音楽の異様さ。そこは現代音楽的な響きがした。ある種の不調和、不幸の予兆の表現で、下野さんの指揮で初めて意識的に聴いた。

中村恵理さんのバタフライは登場のシーンから初々しく、音程も一番厳密だった。蝶々の自己紹介はまるでアルトのように低く、高音と低音をどちらも充実させて歌う。二幕以降、どんどんドラマティックになり重心が下がるが、リンカーン号を待ちながらのねんねんころりの子守歌では再び高音になる。隣のオペラシティで聴いた「B→C」のリサイタルで、中村さんがバロックから現代までの曲を知的に歌われたのを思い出した。

ピンカートンは役柄的には「歌い損」だが、村上公太さんが若きアメリカ士官兵の役を勇ましく歌った。コロナ演出なので、バタフライとの濃厚な絡みはない。歌唱的には、恐らく二日目のほうが的に当たっていたのではないかと思う。若手の但馬由香さんのスズキは素晴らしく、中村さん但馬さんの音程の合った「花の二重唱」(2幕)はソプラノ&メゾのデュオの至芸だった。あの二重唱も最も好きな場面のひとつである。

『蝶々夫人』を聴けば聴くほど、アメリカ領事シャープレスは重要な役だと思うようになった。つまり『バタフライ』は『トスカ』ほど悲惨なオペラではない。蝶々さんには必ず心配してくれるスズキがいて、事態を見守るシャープレスがいる。トスカが相手にするスカルピアは、人気同士の常識が通用しない化け物で、そこに閉じ込められ姦淫されそうになるトスカより、バタフライはずっと守られている。バタフライは自決するが、その前の場面で、再びやってきたピンカートンがシャープレス、スズキとともに歌う三重唱は、先取りされたレクイエムなのだ。そこで、シャープレスの「器」というものが重要になる。バリトンのアンドレア・ボルギーニはこの滋味深い役を歌うには、若すぎたのではないかと思う。これはバリトンにとって本当に歌い甲斐のある、素晴らしい役なのだが、それを知るまでに彼にはもう少し時間が必要だと感じた。外国人キャストはボルギーニのみだったが、所作が一人だけ異邦人的で、日本暮らしが長いアメリカ人の役ならば、もう少し物腰柔らかであってほしかった。

蝶々夫人の子役は世界中の劇場の悩みで、2019年にバタフライを歌った佐藤康子さんは世界中でこの役をやっているが、佐藤さんいわく10歳くらいの筋肉質の男の子を抱っこしなければならなかったり、シャープレスに名前を聞かれて本名を喋ってしまう子や、舞台で歌手の大声を聴いて固まって演技をしない子まで様々だという。新国の子役は、いつも奇跡的に素晴らしい。今回も、とても愛らしくて優しい子役が、母親のバタフライをいたわり、大人たちの間で起こることすべてを理解した演技を見せた。芝居に関する限り、子役はシャープレスより立派だった。

ところでこの蝶々夫人という話は、いったいどういう話なのか。2019年に新国のピットに入ったドナート・レンツェッティは「今でもよくある話だと思います。男が女をだまして、友達が「おいやめとけ、彼女は本気だぞ…と忠告する」と語っていた。私もそういう普遍的な話だと思う。少し背景がドラマティックだが、国際問題や差別の話ではないと思う。音楽がそのように作られていない。

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オペラは物語を伝えるための音楽劇だが、プッチーニは音楽が美しすぎ、オーケストラが美しすぎる。メロディは生き物で、オーラのように登場人物の身体から浮き上がって動き出す。シャープレスの優しい気配は、歌手が歌い出す前から空間に癒しをもたらすし、バタフライがピンカートンの再会を確信した希望の歌は、それが裏切られる運命を知っているがゆえに涙を誘う。「こんな物語に泣くなんて」と腹を立てている人がいたとしたら、プッチーニは普通の音楽とは違うんだ、これは泣くように出来ているんだ、と伝えたい。

ならば、その涙はなんのためか。作曲家が感じていた不幸を分かち合う涙だ。プッチーニは酷い嫉妬に合い、『蝶々夫人』も失敗作とされた。野次が飛び、苦労が水の泡となり、誇りが傷つけられた。そのときのプッチーニは『マタイ受難曲』のイエスのようだっただろう。あるいは、野蛮人に恋人を拷問されるトスカのような気持ちだった。プッチーニの魂が、メロディの美しさを倍加させ、金縛りにする。涙することは、作曲家への鎮魂だ。

新国立劇場の『蝶々夫人』は12月12日にも上演が行われる。

新国立劇場 オペラ「蝶々夫人」

会場
新国立劇場 オペラパレス

公演日程
2021年 12月5日(日)14:00
2021年 12月7日(火)19:00
2021年 12月10日(金)14:00
2021年 12月12日(日)14:00

スタッフ
【指 揮】下野 竜也
【演 出】栗山 民也
【美 術】島 次郎
【衣 裳】前田 文子
【照 明】勝柴 次朗
【再演演出】澤田 康子
【舞台監督】斉藤 美穂

キャスト
【蝶々夫人】中村 恵理
【ピンカートン】村上 公太
【シャープレス】アンドレア・ボルギーニ
【スズキ】但馬 由香
【ゴロー】糸賀 修平
【ボンゾ】島村 武男
【神官】上野 裕之
【ヤマドリ】吉川 健一
【ケート】佐藤 路子
【合唱指揮】冨平 恭平
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団