名著を検証する:「失敗の本質」を精読⑥「白兵銃剣主義の墨守」とは(下)

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『失敗の本質』精読検証の第6回です。今回は、「日本陸軍は本当に大東亜戦争末期まで白兵銃剣主義から脱却できなかったのか」について検証します。

前回のまとめ:「白兵銃剣主義の墨守」と「学習棄却失敗」

同書は、「日本陸軍は『白兵戦思想』に一貫して支配されていた」とし、「白兵銃剣主義」というテーマに関して下記2点の命題を提示しております。

命題1:「陸軍は白兵銃剣主義を墨守していた」
命題2:「最期まで学習棄却できなかった」

なお、命題2については、詳細に記された同書の主旨を抽出して簡明に表記するとこの命題になるだろう、という文章です。その根拠は次の2箇所に依ります。

<根拠1>
「白兵戦による銃剣突撃主義が帝国陸軍の戦略原型であったことは、明治四一年五月の教育総監部発行による、「戦法訓練の基本」の原則に明確に表れている。(中略)基本的な原型はまったく変更されずに、大東亜戦争末期に至るまで維持された」(P248、「3章 失敗の教訓」より、太字は引用者)

<根拠2>
「帝国陸海軍は既存の知識を強化しすぎて、学習棄却に失敗したといえるだろう。帝国陸軍は、ガダルカナル戦以降火力重視の必要性を認めながらも、最終的には銃剣突撃主義による白兵戦術から脱却できなかった」(P261、同上)

(詳細は前回記事:「失敗の本質」を精読⑤をご参照ください)

「白兵銃剣主義の墨守」は本当か

結論として、命題1「陸軍は白兵銃剣主義を墨守していた」は真です。(ただし、「墨守」というネガティブ評価を含む可能性のある記述には同意を留保いたします。つまり、その「ものの見方を長期間保持していた」と考えます。)

確認のため、『作戰要務令』(1938年)にあたると、少なくともノモンハン事件(1939年)頃までは、「白兵銃剣主義」に傾倒していたことが確認できます。

『作戰要務令』

第二(前略)訓練精到ニシテ必勝ノ信念堅ク軍紀至嚴ニシテ攻擊精神充溢セル軍隊ハ能ク物質的威力ヲ凌駕シテ戰捷ヲ完ウシ得ルモノトス(「綱領」P1より引用、太字は引用者)

第六(前略)精錬ニシテ且攻擊精神ニ富メル軍隊ハ克ク寡ヲ以テ衆ヲ破ルコトヲ得ルモノナレバナリ(同P3・4より引用、太字は引用者)

第百三十九 突擊の機迫ルヤ突擊支援ノ爲砲兵ハ(中略)第一線歩兵ハ(中略)最後ノ砲彈ニ膚接シテ突入スベシ此ノ際敵ノ手榴弾、毒煙等ニ會スルモ躊躇スルコトナク突進スルヲ要ス(第二部「攻擊實施」P89より引用、太字は引用者)

「最期まで学習棄却できなかった」は本当か

一方、命題2「『白兵銃剣主義』を最期まで学習棄却できなかった」については異論があります。

なぜならば、「白兵銃剣主義」では「絶対国防圏」構想が説明できないからです。つまり命題2を明確に反証する、重要な反例が存在します。(なお、「最期」とは「大東亜戦争末期」を指します。)

絶対国防圏

1943年夏、大本営は政戦略の構想を修正し、いわゆる「絶対国防圏」構想を打ち出しました。『復刻版 服部卓四郎大東亜戦争全史(四)』によれば、概要は次の通りです。

九月十五日、従来の作戦方針に変更を加えることを決意した。大本営新作戦構想の狙いは、ガ島撤退以後引続き行われている南東太平洋方面における敵との決戦遂行による激烈なる消耗戦から、思い切って間合いをとり、いわゆる「絶対国防圏」を設定して不敗の戦略体制を造成し、その間航空兵力を中核とする陸海戦力の飛躍的充実を図つて、主動的に米英反攻の高潮に対決せんとするものであつた。(P118、「第一章絶対国防圏の設定とその政戦略」より引用、太字は引用者)

また、『戦史叢書』にも同様の記述が確認できます。

(昭和十八年九月十五日時点での大本営の「絶対国防圏戦略構想」決定は)昭和十九年春ごろまでに反撃戦力、特に航空戦力を整備し、来攻する連合軍を徹底的に撃破しようとする企図によるものであった。(『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦<2>』P6)

これらに共通するのは「航空」です。あくまでも「航空兵力が中核」であり「特に航空戦力を整備」することで米英軍と対決することを企図していたことが伺えます。仮に、この大本営の対米戦略を「白兵銃剣主義」と形容するならば、それは非形式的誤謬になるでしょう。

つまり、対米英戦争に関する限り、およそ45カ月続いた戦争期間のうち、後半の約24カ月間(当該期間の約50%超)は、「白兵銃剣主義」ではなくて「航空主兵」こそが、大本営の主要な「ものの見方」でした。

結論:命題2「最期まで学習棄却できなかった」は偽である。

つまり、

「白兵銃剣主義(白兵戦思想)については学習棄却することができた」
「戦略思考の中心は、少なくとも対米戦中葉までには航空主兵に移行した」
「しかし、何らかの原因によって戦闘の敗北を重ねた」

というのが、より実相に近いでしょう。

なお、島嶼戦は「空・海・陸」三位一体の戦いです。大本営の構想の中では米軍を撃滅する主役は航空部隊であり、その航空機や弾薬・糧食などを供給するのが海上部隊でした。現地地上部隊の主要な任務は、飛行場や港湾等「重要施設」の設定・確保となりました。その守備隊が来寇上陸米軍を迎え撃つ基本的な島嶼防衛戦術も、「水際撃滅」から「縦深陣地築城による持久」に移行して行きました。これらの実情に照らしても「白兵銃剣主義」という認識は実情から乖離しています。

今回の検証は、『戦闘戦史』(樋口隆晴著、作品社)の戦術解説によってブレークスルーを得ることができました。例えば、「補章 戦術解説Ⅰ 白兵夜襲vs.最終防護射撃」では、明快な概念図を添えた日米間の戦術の違いに関する説明があります。これによれば、アメリカ軍の防御戦術、例えば全周防御や最終防護射撃「FPF(Final Protective Fire)」と日本陸軍の迂回・静粛夜襲・白兵突撃が、いかに相性が悪かったかがよく解ります。

 

また、『戦闘戦史』の、「教令交付時期」に関する表(P293)などによれば、日本陸軍は、泥縄的だったとしても、戦訓から戦勝を掴むための戦い方を導きだそうと努力していることもわかります。この点、「学習しない組織だった」(要旨)とする『失敗の本質』の主張とは違う景色を見る思いがします。表1は『戦闘戦史』その他をもとに「大東亜戦争期の主な陸軍の戦場と戦略思考と教令等の時系列進化」の概要についてまとめたものになります。

表1.大東亜戦争期の主な陸軍の戦場と戦略思考と教令等の時系列進化概要(教令類に関する出典は『戦闘戦史』P293他)
※月は開始時期を示す。また『失敗の本質』の分析事例は太字で表記した。
※『大本営参謀の情報戦記』P84より。『第一次世界大戦戦史叢書 世界大戰に於ける米軍の數字的記録』は確認できたが、『欧洲戦争における米国陸軍』は確認できず。

むすび

今回の「白兵銃剣主義からの脱却」についての検証は、重要な意味を持っていると考えます。なぜならば、この命題は『日本軍は、環境に適応しすぎて自己革新的適応に失敗した』(:要旨)という、『失敗の本質』が主張する教訓の根拠の一つになっているからです。

これからも様々な論点を検証して参りますがそれは、事実により近づいて教訓を一層深化させることが目的です。『失敗の本質』の分析が提供する各種の洞察は大変有意義であり、有益な示唆に富む分析と教訓を提示している書であるという評価は不変です。

<主な参考文献>
『失敗の本質』(ダイヤモンド社単行本およびKindle版)
『戦闘戦史』(樋口隆晴著、作品社)
『戦史叢書中部太平洋陸軍作戦<2>ペリリュー・アンガウル・硫黄島』
作戰要務令』(軍令陸第十九號、昭和十三年九月二十九日、陸軍大臣板垣征四郎)
復刻版 服部卓四郎大東亜戦争全史(四)
大本営参謀の情報戦記』(堀栄三著、文春文庫)

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