ウイルス学者がカツラをつける時

ウィーンのメトロ新聞(12月17日付)はテレビで著名なチロル州のウイルス学者が、「外出する際はカツラをつける」という話を掲載していた。同学者の説明によると、「自分は新規感染者が増加しているので、チロル州もロックダウンを早急に実施すべきだと発言したことがあった。それ以後、脅迫メールなどが送られてきた」という。「ウイルス学者という職業がテロリストの襲撃対象となるとは考えてもみなかった」と語っている。実感だろう。

新型コロナウイルス(covid-19)オーストリア保健・食品安全局(AGES)公式サイトから

チロルのウイルス学者だけではない。ウィーンの免疫学者、ワクチン専門学者も同じような中傷誹謗の体験をしている。オーバーエステライヒ州では病院関係者が自身の立場を訴える集会を昼休みの時間に開き、それを終えて再び仕事に取り掛かろうとした時、看護師たちに向けてコーヒーが投げかけられたという。一部の学者は家族と自身の自己防衛のために銃を購入したという話も報じられている。

欧州で中東・北アフリカから大量の難民が殺到した時、オーストリアでも難民受け入れ反対、外国人排斥の気運が高まった。その時、国民の一部には銃などを購入する者が増加したことがあった。見知らない難民の襲撃を恐れ、家族と自身の自己防衛のためだ(「オーストリア国民は武装する」2016年3月5日参考)。そして今度は中国発の新型コロナウイルスの感染者の治療する看護師や医師たちや感染症対策を啓蒙するウイルス学者が、コロナ規制やワクチン接種の義務化に抗議する人々から攻撃されるのを防ぎ、いざという時の備えの為にマスタードスプレーや武器を購入しているのだ。米国のカウボーイ映画を見ているような話だが、オーストリアでは実話だ。

オーストリアでは来年2月1日から全国民を対象にコロナウイルスへのワクチン接種が義務化される。外出制限やマスク着用などのコロナ規制に反対する国民の一部で激しい抗議が行われている。今月11日、12日の週末、オーストリアではワクチン接種義務化に反対する抗議デモが行われた。首都ウィーンで極右政党「自由党」が主催した抗議デモ集会では、警察側の発表によると、約4万4000人が寒い中、市内を抗議行進した。第2の都市グラーツでも約2万人、インスブルックでは約6000人が抗議デモに参加したという。外出制限やFFP2マスクの着用義務などのコロナ規制が実施されて以来、オーストリア社会は規制反対派と支持派に分裂してきたが、ワクチン接種の義務化が表明されて以来、その分裂は一層深まってきた。

興味深い点は、コロナ規制やワクチン接種義務化に反対する人たちの攻撃対象は政府関係者だけではなく、コロナ感染者を昼夜ケアする医師や看護師たちに向けられていることだ。警察は病院を警備しなければならなくなった。

直径100ナノメートル(nm)のコロナウイルスは目には見えないから、ウイルスに怒りをぶつけることはできない。そこで怒りの対象をコロナ感染者を治療する医師や看護師、ワクチン接種をアピールするウイルス学者に向けられるわけだ。一種のスケープゴートだ。医師たちや看護師は“武装化”する一方、自身のアイデンティティを隠すためにカツラをつけるといった危機管理が出てくるわけだ。

そういえば、オーストリアでは過去、同じような社会的、政治的状況があったことを思いだす。ただ、コロナ禍では国民が多数派と少数派に分かれてきた。コロナ規制を受け入れ、ワクチン接種をする国民は7割弱だ。残りの3割はコロナ規制やワクチン接種に強く反対する。一部の過激派は影の支配者がウイルスを拡散しているとか、コロナウイルスの存在すら疑問視し、政府関係者を「コロナ独裁」と呼ぶ。

シャレンベルク首相(当時)は11月19日、ワクチン接種の義務化を表明した時、「社会の少数派ともいうべきワクチン接種反対者が多数派の我々を人質にし、社会の安定を脅かしている。絶対に容認できない」と檄を飛ばした。「民主主義社会では寛容と連帯が尊ばれ、少数派は数の暴力に屈することなく、自身の世界観を訴えることができる」ということをシャレンベルク氏が知らないはずがないが、ワクチン接種問題では少数派の暴力に我慢できなくなったのだろう。そこでワクチン接種の義務化が飛び出したわけだ。

南チロルの道徳神学者マーティン・リントナー氏はワクチン接種義務化について、「ワクチンの強制接種は最終的には利点より多くのリスクを伴う。長期的には社会の過激化と二分化の危機だ。そのうえ、オミクロンなど新変異株が出現する一方、時間の経過と共にワクチンの有効性が低下することなどを考えれば、ワクチン強制接種は長期間継続しない限り、社会の免疫効果は出てこない。しかし、強制接種を永遠に続けることなどは民主主義の社会では考えられないことだ」と説明する。

ワクチン接種の義務化という最後のカードを切った政府、医療関係者に対し、コロナ規制反対派は危機感を高めて全面闘争に入ってきた。社会は分裂し、過激化してきた。医師や看護師たちは昼夜、コロナ感染者の治療に献身する一方、コロナ規制反対者の恰好の抗議対象となってきたのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年12月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。