東京都交響楽団 × 尾高 忠明

都響の1月17日の定期は芸劇でのマチネを聴いた。指揮は尾高忠明さん。コンサートマスターは四方恭子さん。前半は二曲とも英国音楽で、ディーリアス(ビーチャム編曲)歌劇『村のロメオとジュリエット』より間奏曲『楽園への道』と、エルガー『チェロ協奏曲 ホ短調』が演奏された。ディーリアスの10分ほどの曲は、牧歌的で優しい曲で、微かな青味を帯びた弦の響きが早朝の冷たく爽やかな空気を感じさせた。管楽器のリレーが森のさまざまな動物や鳥を思わせる。

ディーリアス自身が台本を書いたというオペラの全体は聴いたことがないが、シャガールの絵のような繊細な色彩の舞台が連想された。2012年のBBCプロムスで尾高さんが同じ曲を振った映像がYoutubeにあるが、2022年の都響とはゼロから作り上げた新しい響きが生まれていて、一度眠った何かが、蓋を開けて厳かに目を覚ますようだった。譜面は永遠の石碑で、生きた演奏は何度でもそこに立ち返らなければならないのだろう。指揮者は二度と同じ演奏を繰り返さないのだから、今の演奏を大切に聴きたいと思った。

エルガー『チェロ協奏曲』では横坂源さんが情熱的なソロを聴かせた。端正というより、どこか型破りな印象もある演奏で、早くから広い世界を見て自由を探求されてきた方なのだと思った。時折複数の人間が歌っているような感じのチェロの音。エルガーの曲が魅力的なせいもあるが、地上ではないどこか違う世界へ連れていかれる心地がした。ディーリアスの楽園への道は、確かにこの曲に繋がっていた。

エルガーのチェロ協奏曲といえば、どうしても夭折したジャクリーヌ・デュ・プレを思い出してしまう。芸術家は皆幸福とは限らない。エミリー・ワトソンがデュ・プレを演じた映画のことも思い出した。天才少女としてデビューし、一世を風靡したが、病魔に襲われて悲劇的な最期を遂げた。

後半のチャイコフスキー悲愴は、涙に咽びながら聴くのではないかと思っていたが、べたべたした感じはなかった。今まで尾高さんの指揮には全身全霊を持っていかれることが幾度もあり、2012年に読響と共演したマーラー9番はその中でも究極的な体験だった。感傷的な音楽を作るマエストロではないが、解釈の中の知的で哲学的な閃きが、何故か分からないが涙腺を緩ませる。

1楽章の冒頭から、紙とペン、インクが重々しい響きの中に浮かび上がるようだった。セミヨン・ビシュコフが「悲愴は(ロシア当局から?)自殺を強要されたチャイコフスキーの遺書で、コレラのような伝染病が死因なら「ひとりだけ死ぬ」などということはなかったはず」と語ってくれたことを思い出した。タチヤーナがオネーギンへの恋心を手紙にしたためるように、チャイコフスキーも五線譜に万感の思いを書き綴る。そこに描写された孤独と恐怖と英雄精神、諦観、ノスタルジーは、ただの名曲として聴くことを許さないほど、崖っぷちにある人間の特殊な実存の投影なのだ。

チャイコフスキーは、悲観をパンク・ミュージックのように叫んでいるのではなく、芸術の調和を保ちながら、激情は身体の奥深くに埋められた爆弾のように秘めている。フルートとファゴットが、聖書のめんどりの声のように(?)鳴る1楽章の符牒じみたあの件では、いつも心臓を搔きむしられる。尾高さんと都響の演奏では、チャイコフスキーが不条理な死のドアの前にいながら、温かい思い出や育ててくれた人々を一斉に思い出している感謝の念も感じられ、それがいっそう「死の前の音楽だ」と思わせた。

2楽章の4分の5拍子のワルツでは、不思議な感覚があった。指揮台にいるマエストロに生命力と情熱を注ぐために、オーケストラが演奏をしているように見えた。10年前のマーラーにはなかった光景で、理屈で証明できるものは何一つないが、「オーケストラが指揮者に栄養を注ごうとしている」印象だった。生きていれば、音楽家も普通の人間と同じように、人生の中で色々なものを失う。失うことは悲しいが、何も失わないまま、何も気づかないままでいる演奏のほうが最悪だ。尾高さんの音楽は、ずっと素晴らしい。音楽家は自分自身のことをあまり言葉で語らず、音楽で語る。

3楽章は特攻隊のマーチのようで、指揮者は指揮官の動きに戻った。今までに聴いたどの3楽章より激越な表現だった。チャイコフスキー自身は、この音楽のような性格の人間ではなかったのだから、強烈なアイロニーと反抗心が込められているはずなのだ。打楽器の真剣な音が素晴らしかった。

フィナーレ楽章の前には、長めの空白があった。悲愴の最終楽章には、音楽の最も大切なものが詰まっている。無になっていく人間の無力さ、英雄精神の儚さ、未練や悔恨。自殺を強要された人間が、暗号をちりばめて書いた、稀有で特殊な最期の音楽がこれなのだ。管楽器は地中に潜るような鈍い音を出す。そのあとに奏でられる優しい旋律の意味は何だろう。チャイコフスキーは、宿命をすべて受け入れ、自分を苦しめていたものが小さな敵ではなく、生まれてきた歓喜とともにあった巨大な影であったことを認識したのかも知れない。

「いやしかし、許してはいない」という途切れ度切れの音楽から、矛盾に満ちた心情吐露は続く。都響はこういう音も出すのだ…芸劇の1階席はステージが近く、オケと一体化するような感覚があった。涙は出なかったが、精神の深層部で何かが猛烈に揺さぶられた。
不幸から器用に逃れようとしても、究極的な何かを作らせるために、天は作曲家をこのように突き落とすのだ。

音楽家には、聴衆とつながっているようで、つながっていない幽霊のようなタイプもいる。過去にはフェイクにも存在価値があったが、この先の世界では人間の感受性が強くなり、幽霊は見抜かれる。一度もお話をしたことのない尾高さんの、真の音楽家として背負った宿命の重さを思った。

短い演奏会に感じられたが、終演は16時をかなり過ぎていた。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2022年1月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。