欧米メディアによると、ロシア軍のウクライナ侵攻が差し迫っている。米、英、独、豪、そして日本も在ウクライナの自国民にウクライナから早急に退避するよう警告を発した。一方、ロシアはウクライナ東部国境沿いに武力侵攻に十分な軍事力を集結済みという。米ロ首脳は12日に電話会談をし、ウクライナ危機の外交的解決への最後の努力が行われたが、ワシントンからの情報では大きな進展はなかった。
ロシアが2014年、クリミア半島を併合して以来、ウクライナ軍は東部ドンバスでモスクワから軍事支援を受ける親ロシア分離主義勢力と戦いを続けてきた。過去8年間、200万人以上の国内避難民が生まれ、1万4000人以上が犠牲となった。そして今、ロシアとウクライナ両国が再び軍事衝突を引き起こせば、新たな犠牲者が生まれる。ウクライナのゼレンスキー大統領は国民に平静になるように呼び掛けている。
ウィーンに住むウクライナ人女性は、「ウクライナと言えば、いいことを思い出す人は少ないだろう。ウクライナは第2次世界大戦中、多くの苦しみを味わい、何百万人もの人々が命を落とした。そしてチェルノブイリ原子力発電所事故だ。その後、軍事大国ロシアのクリミア半島の併合、東部地域への武力侵攻が続く」と嘆く。
ウクライナのギリシャ・カトリック教会の対外関係部門の責任者ボリス・グジアック大司教は、現在重要な話し合いをしている全ての指導者に対し、「武力攻撃を開始しないでください。人々を殺し、新しい孤児や新しい未亡人を生み出す理由はありません。国民全体を更に貧困にするだけです」とアピールし、「北大西洋条約機構(NATO)に対する戦争でもなく、ウクライナや西洋の脅威に対する戦争でもない。キリスト教を土台として自由と民主主義の理想に対する戦争だ。それはヨーロッパの価値観と原則に対する戦争を意味する」と述べている。
ところで、ウクライナの主要宗派は正教会だ。ソ連邦が解体し、ウクライナが独立するとロシア正教会下にあったウクライナ正教会は一時、3分割された。ロシア正教会の管轄権から独立を願う声がキエフ総主教に所属する正教会から出てきた。ただし、コンスタンチノーブル総主教庁は当時、ウクライナ正教会の独立に反対していたが、ロシア正教会がバルカンの正教会圏を主管下に置こうと画策してきたことに不快を感じ、キエフ総主教下のウクライナ正教会の独立を2018年10月に認めた。それを受け、キエフ総主教所属の正教会は2018年12月15日、独立正教会と統合し「ウクライナ正教会」を創設した。
ウクライナのポロシェンコ大統領(当時)はキエフで開催されたウクライナ正教会の主教会議に参加し、ウクライナ正教会の新設を称え、「ウクライナ正教徒がモスクワの管理を受けることはもはや容認されない」と指摘し、正教会の独立はモスクワ支配に終止符を打つものだと強調、国民の愛国心に訴えた。
キエフ総主教庁下の信者数は全体の約50%を占め、信者数ではウクライナでは最大の規模を誇る。モスクワ総主教庁所属の正教徒は約26%だ。
ロシア正教会は過去、コンスタンチノーブル総主教庁に政治的圧力をかけ、キリル総主教は、「ウクライナ正教会の独立は破滅的な決定だ」と非難したが、ウクライナ正教会の独立を阻止できなかった。ロシア正教会は332年間管轄してきたウクライナ正教会を失い、世界の正教会で影響力を大きく失う一方、モスクワ正教会を通じて東欧諸国の正教会圏に政治的影響を及ぼそうとしてきたプーチン氏の政治的野心は一歩後退せざるを得なくなった。
欧米メディアは、NATOの東方拡大政策がロシアのプーチン大統領をして、ウクライナ武力侵攻に駆り立たせている最大の理由と受け取っているが、ウクライナ正教のロシアン正教からの離脱がプーチン氏に大きな痛手であったことを見落としている。
ロシア国民の多数は正教徒だ。そしてプーチン氏も5歳の時、正教の洗礼を受けている。同氏が語ったところによると、「父親の意思に反し、母親は自分が1カ月半の赤ん坊の時、正教会で洗礼を受けさせた。父親は共産党員で宗教を嫌っていた。正教会の聖職者が母親に、『ベビーにミハイルという名前を付ければいい』と助言した。なぜならば、洗礼の日が大天使ミハイルの日だったからだ。しかし、母親は、『父親が既に自分の名前と同じウラジーミルという名前を付けた』と説明し、その申し出を断わった」という。また、「キリスト変容教会は1977年以来、キリル総主教の実兄が運営しているが、自分の両親の追悼ミサもここで挙行された」と述べ、洗礼を受けた教会との縁の深さを強調したという(「正教徒『ミハイル・プーチン』の話」2012年1月12日参考)。
ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、「戦争は狂気です。戦争の緊張と脅威は真剣な対話を通じて克服しなければならない」と強調し、関係国のエスカレーションを解除するためにロシアとウクライナ、それに独仏の4カ国が参加する「ノルマンディー形式」での会談の進展に期待を表明している(バチカンニュース2月9日)。
不思議に思う点は、フランシスコ教皇はなぜ「ノルマンディー形式」の対話ではなく、ロシアとウクライナの正教会指導者間の対話と和解を求めなかったのかだ。ロシア正教会とウクライナ正教会の指導者が胸襟を開いて語り合い、ウクライナ危機の回避でプーチン大統領に助言すれば、正教徒プーチン氏もそれを無視できないはずだ。ひょっとしたら、助け船となるかもしれない。
10万人以上の兵力を動員し、緊張を高めた後で外交的な解決に切り替えることは、大国主義のプーチン氏にとって容易ではないはずだ。米国の経済制裁を回避するために武力衝突を回避したとなれば、自身の面子に傷がつく。しかし、正教指導者が「戦争を避けるべきだ、同じ正教徒の兄弟ではないか」といったアドバイスを受け入れる形で武装解除を指令すれば、正教徒プーチン氏の株は上がる。少なくとも、面子は維持できる。
そのためにも、ロシア正教会とウクライナ正教会の指導者は対話を始め、プーチン大統領に対し「兄弟間の戦争」を回避するように強く訴えるべきだ。戦争が勃発しようとしている時、宗教指導者は沈黙していることはできない。ウクライナ危機を外交手段で回避出来ないのなら、“神の声”を代弁しているという宗教指導者に登場してもらう時ではないか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年2月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。