ロシアのプーチン大統領は「ウクライナはファシストによって支配され、ネオナチが彷徨している」と考え、「ウクライナをナチ支配から解放する」という使命感を持っている。同大統領の先月24日の戦争宣言の演説を聞く限り、そのように受け取れる。それだけではない、ウクライナ東部の親ロ派が住むドネツクとルガンスク両“人民共和国”では「ナチスたちによるジェノサイドが行われているから、ロシア軍を派遣してロシア人を救済しなければならない」というのだ。
ファシスト、ネオナチ、ジェノサイド、といった一連の言葉を聞くと、現在のウクライナのことではなく、どこか別の世界の話のように感じるが、それがプーチン氏の「ウクライナ観」とすれば、少々異常だ。プーチン氏の精神状況に警戒を呼びかける声が一部で聞かれるが、一定の説得力を帯びてくる。
マクロン仏大統領はウクライナ危機が発生して以来、外交交渉で危機の解決を目指してプーチン氏と少なくとも一度はモスクワで対面会談し、5回以上の電話会談で行って努力してきた。そのマクロン氏は「プーチン氏は変わった」と証言していたという。どのように変わったのかは説明されていないが、直感したのだろう。先月24日の「戦争宣言」をした時のプーチン氏の表情は確かに厳しい。何か追い詰められているような緊迫感、不気味さを感じた。
ウクライナでは過去も現在もネオナチは存在するが、政権を担っていない。ゼレンスキー大統領はウクライナ系ユダヤ人の家庭で生まれた。プーチン氏が主張するように「ウクライナはナチストたちに支配されている」とはいえない。
ちなみに、反ロシア政策を主張する極右政党「全ウクライナ連合『自由』」(「スヴォボータ」)はネオナチ政党だが、ウクライナ政界では大きな影響を有していない。現党首はオレーフ・チャフニボーク氏、党員数は約1万5000人だ。一方、プーチン氏自身は欧州の極右政党と密接な関係を持っている。例えば、オーストリアの極右政党「自由党」だ。同党関係者がモスクワを訪問した時、プーチン関係者に歓迎されている。プーチン氏の反ナチ主義は首尾一貫していないのだ。
レーニン時代、その周辺には多数の優秀なユダヤ人が要職で働いていたが、スターリンになると、彼は政権周辺のユダヤ人を嫌い、次々と粛清していったことは良く知られている。プーチン氏と過去8回会談したオーストリアのハインツ・フィッシャー前大統領は、「プーチン氏はレーニンよりスターリンから多くのことを学んだのではないか」とオーストリア週刊誌「プロフィール」2月26日号のインタビューで語っている。フィッシャー氏によると、「プーチン氏は理性的で、生き生きとした政治家だったが、ウクライナ侵攻したプーチン氏の冷血な戦略をみると、人格が変わったように感じる」という。鋭い人物評だ。
蛇足だが、メルケル独首相(当時)がモスクワを訪問し、プーチン大統領と会談した時の話だ。プーチン氏は犬嫌いで知られているメルケル氏の前に飼っている犬(ラブラドール)の鎖を放し、メルケル氏の様子を観察していたという。プーチン氏はメルケル氏が本当に犬が嫌いなのかを確かめたかったのかもしれない。プーチン氏はいつまでも情報機関のエージェント気質が抜けきれなかったという。
ウクライナ東部の親ロ派が支配するドネツクとルガンスク両“人民共和国”でウクライナ側によるジェノサイドが行われている、という主張にいたってはやはり異常だ。プーチン氏にとって、ウクライナ侵攻は「ウクライナの非ナチ化」というのだ。だからプーチン氏の口から何の抵抗もなくジェノサイドといった言葉が飛び出すのだろうが、ドネツクやルガンスク地域は親ロ武装勢力が支配し、監視している。ウクライナ政府軍がロシア系住民を大量虐殺することは出来ない。
それでは、理性的なプーチン氏がなぜ非現実的なフェイク情報に基づいた「戦争宣言」をしたのか。ソ連時代からロシアではナチス・ドイツ軍との戦いの勝利が国家の栄光のように受け取られ、ファシズムへの戦いは聖戦のように受け取られてきた。プーチン氏はその国家の財産をウクライナ侵攻の際にも利用しただけではないか。そのためには、ネオナチ、ファシズム、ジェノサイドといった書割がどうしても必要となる。存在もしないファシズム政権を作り上げ、それを糾弾し、ロシア民族を救済する、といった使命感で意気を挙げているわけだ。
ブルガリアの政治学者イバン・クラステフ氏が指摘していたように、ウクライナ侵攻はウクライナの非ナチ化のための「ロシアの戦争」ではなく、「プーチンの戦争」なのだ。
ロシア軍が民間人を殺害し、原子力発電所にも躊躇なく攻撃を仕掛けるなど、冷血な戦争行為を繰り返してきたところをみると、プーチン氏が自身のプロパガンダ(ウクライナの非ナチ化)に束縛され、自由な判断を下すことが出来なくなってきているのではないか。ウクライナの制圧が目的ならば、全土に大きな被害をもたらす原発への攻撃はできない。武力行使の言い訳に利用してきたプロパガンダ(ロゴス)があたかも生き物(悪魔)のようにプーチン氏に絡みついてきているのを感じる。
プーチン氏が自身の妄想から解放されるか、ロシア国民がプーチン降ろしに乗り出すか、どちらが早いかは現時点では分からない。被害が広がらないためには、できるだけ早くプーチン氏を政治舞台から下ろさなければならないのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年3月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。