連日ウクライナの悲惨なニュースが流れる中、3月3日には読響と首席客演指揮者の山田和樹さんによるサントリーホールでのコンサートを聴いた。前半はウィーン・プログラムとも呼ぶべき並びで、コルンゴルトの最後の管弦楽曲『シュトラウシアーナ』とグルダの『チェロ協奏曲』が演奏された。
『シュトラウシアーナ』はヨハン・シュトラウスとウィーンへのオマージュのような曲で、アメリカ亡命後にヨーロッパでの名声を失ってしまったコルンゴルトの「それでも故郷は愛おしい」という万感の念が伝わってきた。
ささやくようなピツィカートとチェレスタのキラキラした音が、コルンゴルトの少年時代へのノスタルジーを映し出しているように感じられ、作曲家が23歳の若さで書いたオペラ『死の都』の断片も聴こえてくるようだった。自分に背を向けたウィーンへの無念を、憎しみではなく赦しでもって描いたコルンゴルトの心境を想像した。6分ほどの曲だったが、指揮者のチャーミングな姿とオケのエスプリにうっとりした。
前日には武満徹さんの「弧(アーク)」をオペラシティで聴き、カーチュン・ウォンと東フィルと高橋アキさんが奏でる武満の面白い曲に「北風と太陽」のエピソードを思い出していた。
武満さんと山田さんに共通しているのは、「音楽とは力による支配ではない」ということを示し、欧米の人たちを驚かせたことだと思う。ごつごつした理念の塊を見せるのではなく、キラキラの粒子になって魅了する。金の雨になって人の心に入り込む。粋の精神であり、ひとつの戦略とも言えるが、それは西欧の人々にとっての死角であり、簡単に真似できないことなのだ。
グルダの『チェロ協奏曲』が始まる前、舞台にドラムセットが運ばれてくる様子を見ながら、とても読響らしい光景だとわくわくした。読響のコンサートでは昔から面白いことばかりが起こり、支度中から何かが始まっている。
ステージ向かって中央から右側に小編成のアンサンブルが並び、ジャズ・ベースとギター以外に弦楽器はなし。ソリストの横坂源さんがはじけるようなパッセージを奏で、ドラムのビートとワイルドなブラスが掛け合いになった。ロック調が続くのかと思いきや、モーツァルト風のほのぼのとした合奏とのコラージュとなり、この曲が並々ならぬ反骨精神から出来ていることを思わせた。
アカデミーにベートーヴェン・リングを突き返し、自分はジャズをやるのだと宣言したフリードリヒ・グルダの、ヒッピーのような姿を思い出す。この曲が書かれた1980年はジョン・レノンが殺された年であることも思い出された。
「序曲」「牧歌」「カデンツァ」「メヌエット」「終曲」から構成され、「カデンツァ」のチェロの無伴奏シークエンスでは、ベートーヴェンの「第九」のフィナーレのはじまりの音型がぼんやりと現れる。第九になりそうで、ならない。メロディはさまようように変形しながら、ピアソラのようになったりして、不器用な孤独感を醸し出していく。「終曲」はオーストリアの山村の大衆音楽のように賑やかで、明るく庶民的。山田さんはぴょーんぴょーんと飛び上がりながら指揮をしていた。
このグルダの曲は、山田さんが去年の9月に日フィルと演奏した水野修孝さんの『交響曲第4番』を真っ先に思い出させた。あの名演を忘れるわけにいかない。現代音楽風に始まって、最後はポップスの凱歌となる。
グルダや水野さんの作品を取り上げることは、クラシックが自身のジャンルの中で「閉じていない」ということを示すためにも、重要なことだと思う。クラシックがクラシックのカテゴリーの中で高慢に硬直していても、外の世界にとってはどうでもいいことなのだ。横坂さんのソロは熱がこもっていて、オケと息がぴったり合っていた。急な代役だったが、ご本人も楽しんでいる様子が伝わってきた。
後半のドヴォルザーク『交響曲第9番《新世界から》』は閃光のようだった。
プログラミングというのは大切なもので、コルンゴルトとグルダを聴いた後のドヴォルザークは、いつもとは違う驚くような新鮮さがあった。大編成となった読響は、英雄的で希望に満ちた一体感のあるサウンドを響かせ、その英雄とは独裁者ではなく、普通の人々であり、危機によって誇りに目覚めた戦士たちのことである。
ここでウクライナの兵士たちを思い出すのは、陳腐なのかも知れない。他に何を思い出せばいいのか分からなかった。壮大なオペラのようでもあり、巨大な絵画作品に圧倒される感覚もあった。山田さんが日生劇場で振った「ルサルカ」も思い出され、ドヴォルザークの神秘的な一面が掘り起こされていると感じた。スピリチュアルでミステリアスなところがある。
「新世界」が人気なのは、何か理屈を超えた直観で人の心をつかむからなのだろう。テンポは微妙に揺らぎ、不安の中で震えながら必死に勇気を振り絞って存在している人の姿を連想させた。オーケストラが力を合わせて大きな炎を作り出しているように、窮状においては人間は助け合わなければならない。
一度ウクライナのことを思い出してしまうと、第2楽章も国外に避難した難民となった100万人の人々が「家路」を想う曲に感じられた。管楽器のメロディアスな旋律に涙腺が緩むが、その音を聴きながら「指揮者は本気でプレイヤーに感謝しているのだ」と思えた。
最近何故か、言葉にならない指揮者の思いがはっきりと伝わってくることがある。プレイヤーを人柱にようにしか思っていない指揮の作り出す音楽は、聴いていてひどく傷つけられる。さまざまなリーダーシップがあるとは思うが…。
『カルメン』で山田さんに取材したとき、闘牛士エスカミリオについて「エリートは好きではない」という話をされたのを思い出した。指揮者はある意味、全員がエリートだと思うが、私が心からいいと思う指揮は、エリート的ではない指揮なのだ。そこにしか未来はないとも思う。人間は究極のところ皆エゴイストなのではないかという人もいる。ある局面では、確かにエゴイストになって身を守らなければならないが、美学とはそれを超えたところにあるもので、日本語には「心がけ」という美しい言葉がある。
第3楽章のはじまりを聴いて、この曲がこんなにも第九に似ていたことに驚いた。実際に「ドヴォルザークの第九」なのだが、新世界(アメリカ)という言葉が目くらましになってベートーヴェンの第九とのつながりをずっと気づかずにいた。様式は異なっていても、精神的なものが似ている。
インスピレーションとなった黒人霊歌のモティーフは、ボーダーレスな世界のアンセムとなっている。ベルリンの壁崩壊のときに第九が演奏されたように、今のこの混沌の夜明けにはこの曲が演奏されるのが相応しいと思う。管楽器のはずむようなフレーズがコロナと戦争の終幕の未来を先取りして祝福しているように聴こえた。
第4楽章は、まさに新時代の解釈で、今まで認識したことのなかった予想外の旋律が、譜面の裏側からぞろぞろと顔を出した。目を瞑って聴くと、リズムも予想外のうねりを含んでいる。ドヴォルザークは素朴な作曲家のイメージが強いが、あらゆるところに半音階の洗練された仕掛けがあり、聴き手をあっと言わせるどんでん返しがあり、英雄的な冒険精神がある。
新世界は王様のような交響曲だと感じた。この世の王というより、太陽のような王で、宇宙の掟のすべてである。ステージの上のプレイヤーも、戦地の兵士たちも戦っている。日没の闇の中、息をひそめながら「もう駄目かも知れない」と絶望しかけていたときに、寛大で道徳的な太陽がおごそかに昇ってくる…勝手に「トスカ」のような舞台装置を頭の中に思い描き、悲劇ではなく民衆の勝利という大団円に終わるオペラ世界を連想した。
東京の3月はセンセーショナルだ。都響が大野さんとショスタコーヴィチの10番を演奏した月に、インバルと『バビ・ヤール』を演奏し、東フィルはプレトニョフと『わが祖国』を演奏し、新国の『椿姫』ではウクライナの指揮者ユルケヴィチがピットに入る。一日が一年のように激しい速度で過ぎていく週に、この「新世界から」も記憶に残る演奏会となった。