無事来日したマキシム・パスカルと読響との芸劇マチネ。多彩なフランス音楽で組まれたプログラムに、指揮者の本領発揮の意欲がうかがえる。マキシム・パスカルほど見ていて面白い指揮者はいないと思うが、これまでの来日公演では圧倒的にオペラのピットの中で振ることが多く、2020年12月の東京芸術劇場開館30周年記念公演に続いて、貴重な「舞台でのマキシム・パスカル」を見る機会となった。コンサートマスターは小森谷巧さん。
ベルリオーズ『ファウストの劫罰』からの「妖精の踊り」「鬼火のメヌエット」「ハンガリー行進曲」は、1曲目の「妖精の踊り」から優雅な3拍子に合わせてのマキシムの「踊り」が見られた。手足が長く9頭身なので、パリ・オペラ座のダンサーに混じっていてもおかしくない感じ。いつものようにネクタイが少し右側に曲がっている。指揮棒はなしで、手首と身体全体をゆらゆらさせてオーケストラから大きな呼吸感を引き出す。管楽器の音が大きめで、独特のプロポーションの音楽。先日のヤマカズに続いて読響は絶好調で、指揮者の絵作りに積極的に関わり合っていく。ベルリオーズのものものしく古風な一面が面白く表されていた。
ショーソン「詩曲」ではヴァイオリン・ソロの前橋汀子さんが鮮やかな朱色のドレスで登場し、クリスタルの水槽の中で泳ぐ幻の赤い魚のような美しさだった。先ほどまで指揮者に釘付けだったが、この曲では前橋さんをずっと見つめてしまった。
興味深いのは、世代の違うソリストと指揮者は、音楽を征服するやり方も全く違っていて、それでも絶妙に対話が成立していることだった。ソリストの放つひとつひとつの音の凝縮感と粘着感は、次のラヴェル「ツィガーヌ」の前半の独奏でも圧巻。ラヴェルにはどこか常軌を逸したところがあり、常識的なスケールでは到達できない「超-常識」がある。前橋さんの妖艶な「毒」と、パスカルの奇想天外が組み合って、過剰なほど魅力的な仕上がりになっていた。
後半のルベル(1666-1747)『バレエ音楽《四大元素》』はこのブログラムで一番楽しみにしていた曲で、一気に心は18世紀に連れ去られた。チェンバロのきらきらした音が、ベルサイユ宮殿の華美なインテリアや貴族たちの装束やカツラを連想させる。弦楽器の痙攣的なボウイングも見事だが、ファゴットが神業としか思えない装飾的フレーズを放ったときは心臓が止まりそうになった。「踊る王」であったルイ14世も、この曲で踊ることがあっただろうか。ところどころスペイン王宮ふうの典雅な憂いが感じられ、様々な工夫を凝らした当時の舞踊の舞台のことを想像した。屋外で上演されることもあっただろうか。一曲目「カオス」の不協和音は現代音楽的な鋭さも暗示している。マキシム・パスカルは巨大テルミンを演奏するような指揮で、「素手でオケの呼吸をつくる」動きは最初から一貫している。これは古楽指揮のある種のスタンダードなのかも知れない。
ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲は巨大な絵を見るようだった。「夜明け」の宇宙が始まるような微粒子の飛び交う世界、すべての色彩が絵の中にあり、火・風・水・土の4大エレメンツが躍動している感覚が神秘的だった。2017年のパリオペラ座バレエの来日公演で初めてマキシム・パスカルを知ったのが「ダフニスとクロエ」だったが、ミルピエの振付のことはほとんど忘れていて、覚えているのはただただ驚きだった若い指揮者のことだった。
読響の平和で温かい音は、ラヴェルのバレエ音楽をさらに宇宙的で果てしないスケールのものにしており、マキシムの身振りも曲の進行とともに大きく膨張していった。「パントマイム」は指揮者が踊るダンスのことだったのか…と思っていたら、次の曲ではさらに動きは突風のようになり、指揮者は宇宙をまといはじめた。
ダフニスとクロエは、どれだけ古い話だったか…月が天空に現れる前の、すべての大陸が陸続きになっていた時代の話のように感じられる。今報道されている戦争が、本当のところどういう戦いで誰の利益になるのかはてんで分からない。『ダフニスとクロエ』は丸ごと平和の音楽で、モラルを越えてつながっている「命」の表現に思えた。
ラスト近くは狂気の音楽で、踊っているのは指揮者だけではなかった。みんな楽器を持っているので物理的には踊っていないが、別の位相から見ると激しく踊っているのだ。この感覚をなんと描写したらいいか…演奏していたが、踊っていた。なるほど。まさに「全員の踊り」!
編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2022年3月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。