ロシア正教会の「試練」

ロシア軍がウクライナ侵攻して15日で20日目を迎えた。ロシアとウクライナ両国間で停戦に向けた交渉が行われている一方、戦場となったウクライナの各地ではロシア軍の激しい攻撃が展開されている。ロシア軍とウクライナ政府軍の間で多くの犠牲者が出ている。ロシア軍の無差別攻撃で多くの民間人が殺されている。

プーチン大統領とキリル1世(Wikiwandから)

ここにきて、ウクライナでロシア正教会に所属するロシア兵とウクライナ正教会に属する兵士が互いに殺しあっていることにロシア正教会内で悲憤の声が挙がっている。特に、ロシア正教会のトップ、モスクワ総主教のキリル1世が沈黙を続けていることに批判の声が日増しに大きくなってきた。

スイスのカトリック神学の中心地、フリブール大学の神学者バーバラ・ハレンスレーベン氏はスイスの日刊紙「ゾンタークスブリック」への寄稿の中で、「ウクライナ戦争でロシア正教会は試練に直面している。ウクライナのモスクワ総主教庁に属する正教会の聖職者たちはキリル1世に距離を置き始めている。ロシアはイコール、プーチンではないように、ロシア正教会はキリル1世ではなくなってきた」と強調している。ドイツの東方正教会専門家トーマス・ブリーマー氏は、「世界のロシア正教会の信者たちがモスクワの指導者に背を向けてきた」と報告しているほどだ。

キリル1世はロシア軍のウクライナ侵攻が始まって以来、これまで一言もプーチン大統領を批判していないことに対し、ロシア正教徒内でも批判が出てきた。注目すべきは、ウクライナでキエフ総主教庁に属する正教会聖職者とモスクワ総主教庁に所属する聖職者が「戦争反対」という点で結束してきたことだ。ウクライナには、2018年に発足したキエフ総主教庁の「ウクライナ正教会」と、ロシア正教のモスクワ総主教庁と関係を維持する「ウクライナ正教会」が存在する。両正教会はこれまで対立してきた。

冷戦時代、ロシア正教会はソ連共産党政権と癒着し、国民から信頼を失っていった。ソビエト連邦の解体後、ロシア指導者はロシア正教会の支援を受けて国民の結束を呼びかける一方、その代償として国は教会に財政的な支援をしてきた。

ウィーン大学組織神学研究所のクリスチャン・ストール氏とヤン・ハイナー・チューク氏はスイスの高級紙「ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング」(NZZ)への寄稿(3月14日)で、「プーチンは、西側の退廃文化に対する防波堤の役割を演じ、近年、正教会の忠実な息子としての地位を誇示してきた。同時に、莫大な国の資金が教会や修道院の建設に投資され、ソビエト連邦の終焉後はほとんど不可能と考えられていたロシア正教会のルネッサンスに貢献した」と記している。

ロシア正教会は公の場での影響は大きくないが、プーチン氏との関係でその影響を維持。そして今度は「プーチン氏の戦争」に駆り出されてきたわけだ。モスクワ総主教は説教の中で、「プーチン大統領によって解き放たれた戦争は西側の同性愛者のパレードからロシアのクリスチャンたちを守る」と述べている。

プーチン氏とキリル1世を結び付けている点について、ストール氏とヤン・ハイナー・チューク氏は、「西側文化への拒絶とキエフ大公国の歴史的重要性だ」と分析している。両神学者は、「プーチン氏とキリル1世の同盟は、ロシアのキリスト教が西暦988年にキエフ大公国の洗礼によって誕生したという教会の歴史的物語に基づいている。ベラルーシ、ウクライナ、そしてロシアは、教会法の正規の領土を形成する兄弟民族だ、というわけだ。これはプーチン氏のネオ帝国主義的関心とほぼ一致している」と指摘している。

ロシア正教会の宗教的神話と政治イデオロギーが結合することで「宗教ナショナリズム」が生まれてくるわけだ。両神学者によると、「戦争の勃発以来、ロシアの『教会と国家の間の交響曲』がこれまで以上に不協和音となってきた。ロシア正教会内に戦争を支持しない司教、神学者、信者の勇気ある声が出てきたからだ」と説明。

ウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)の首座主教であるキエフのオヌフリイ府主教は「ロシアは侵略者である」とはっきりと述べている。キリル1世はその声をこれまで完全に無視してきた。モスクワに忠実な教会は、ウクライナで多くの小教区を持っているが、多くの国民が、2018年に設立されたウクライナ正教会に移ってきている。ハレンスレーベン氏のいう「ロシア正教会の試練」だ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年3月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。