私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は、「反省は統一に復(かえ)ろうとする作用である。哲人ほど内省的であり、統一に復るほど幽玄である。真の道の人とは、根源的なものと枝葉的なものとを統一的に持っている人のことである」、と言われていたようです。
『実践版 安岡正篤』(拙著)の「はじめに」にも書いた通り、安岡先生が戦前戦後を通じ一貫し説き続けられたのは、自らに反り本来の自己を自覚(自反尽己…じはんじんこ)し、天から与えられた使命を知り(知命)、自己の運命を主体的に自ら切り拓く(立命)、ということの人生における重大性と必要性でありました。
冒頭の引用は難しい表現をしていますが、要するに真の道の人とは自反尽己し続ける人、というのが基本だと思います。その上で、「枝葉的なものとは一体何か」また「内省だけで良いのか」、ということです。安岡先生が言わんとしているのは、例えば世の様々な社会現象を枝葉末節と切り捨てるのではなくて、そこに常時目を向けながら統一的・統合的に内省し続けるバランスが大事だということでしょう。
陰陽思想では、事の一切は「陰」と「陽」とが相待することですが、それを草木で例えれば、根の部分が陰で枝葉花実が陽となります。陰・陽は何時も上手くバランスを取って創造・発展して行く必要がある、というのが東洋思想の基本的な考え方です。即ち、陽の部分はどんどんと分化・発展し活発化・末梢化して行く性質を有し、他方、陰の部分はそうやって分かれるものを時に統一したり時に調和させたりするように働いているわけです。
根源的なものを内向きとしたら、枝葉的なものは外向きとなります。世の中は常に変化し、変化と共に新たな思索が次々生まれ、人類社会は継続進化して行っています。勿論、時代変われども本質的に変わらぬ部分も沢山ありますが、学び薄くして唯我独尊の世界に入ったらば大変な間違いを犯しかねません。
『論語』に、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(為政第二の十五)とか、「吾(われ)嘗て終日食らわず、終夜寝(い)ねず、以て思う。益なし。学ぶに如(し)かざるなり」(衛霊公第十五の三十一)、とあります。これら孔子の言は、学ぶことは必要不可欠であり、併せて思索をすることが大事だと教えています。
そして此の思索の中に自反という要素、つまり自らを省みることがなくてはなりません。様々な社会現象や色々な人あるいは世の中の状況にも常に目を配りながら、仮にそうした周りの環境が悪ければ自分は如何に在るべきかとも考え内省して行く人が、「根源的なものと枝葉的なものとを統一的に持っている」真の道の人ということではないかと思います。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年3月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。