国際危機から考える「正統」を議論する意義

カルト宗教の信仰者に対し信仰から離脱をただす言葉にどんなものがあるだろうか。

真っ先に思いつくのはやはり「異常な信仰は学ぶべきではない」といった信仰内容の異常性・異様性を指摘するものではないか。

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しかし、どうだろうか。信仰者から「では、正常な信仰を教えてほしい。そちらに宗旨替えする」と反論された場合、多くの日本人は再反論に窮するのではないか。

「無宗教」が国民の大多数を占める日本で「正常な信仰」を説明できる者は極小派だと思われる。カルトとはいえ信仰者に対し「宗教は暇人がやるものだ」とはさすがに言えない。

「正常な信仰」を説明できない者は「信仰以外の有意義な生き方」を説くかもしれないが「正常な信仰」を求める者に対して説得的とは言えない。

なかにはオウム真理教事件を引き合いに出して「その信仰を学ぶとそのうち君は人を傷つけてしまうかもしれない」と説くかもしれない。

これに対し「キリスト教やイスラム教の信仰者も人を傷つけてきた。それと同じではないか。なぜ、自分の信仰だけに言うのか」と反論された場合、やはり多くの日本人は再反論に窮するのではないか。

日本では「宗教犯罪」は「神の名の下で行われると犯罪」とか「宗教活動に犯罪行為が含まれている」というニュアンスで語られることが多いが本来は「正統な宗教」とか「正しい信仰」に服さないことである。

日本で平成前期にカルト宗教が流行した理由として相手の異常性を指摘した場合「では、正常とは何か」「正統とは何か」という反論に対して具体的な準備がなかったこともあるのではないか。「正常」「正統」を示さずに相手の異常性を指摘することは実は「挑発」と大差がないという理解が乏しかったからではないか。

この視点は現在、巷を騒がしている「反ワクチン集団」対策の参考になるだろう。ワクチン接種は正統な新型コロナ対策であるが、その伝達に成功しているだろうか。大手マスコミは国民に対しワクチン接種の正統を伝える役割を果たしているだろうか。

もちろん、反ワクチン集団対策だけではない。正統は国際危機を考えるうえでも参考になる。現在、もっとも正統を意識すべき分野、それは間違いなく国際秩序である。

ロシアのよる対ウクライナ侵略は「国際法に基づく国際秩序」という「正統」への攻撃に他ならない。言うまでもなく日本はこの正統に身を置いているから一応の平和を享受できているのである。

しかし、日本ではその理解は曖昧と言わざるを得ない。だから日本ではロシアの異常性にこそ反応するが「ロシアも悪いがウクライナも悪い。どっちもどっちである」とか「アメリカの代理戦争に過ぎない」といった言説が出てくるのである。

言論人こそ「正統」を論じよ

日本で「正統」への理解が曖昧なのは、これを理解しようとすると息苦しいことが待っていると思う、あるいは理解を試みて息苦しい経験をした者が少なくないからではないか。

筆者も日本で「正統とは何か」と議論すると「豊かな深みある正統論」よりも「正統とはこれだ!」という問答無用な主張が幅を利かし、いつの間にか「正統に反する異端」の議論に移行し、やがて異端を如何に規制するのかという方法論ばかりになりそうな気がする。

戦前は「国体」という「大日本帝国の正統」が強調され、これを守るために治安維持法が制定、言論弾圧に利用された。その結果、対米開戦を支援し守らんとした「国体」自体を危うくした。正統の強調・擁護が正統自体を危うくしたのである。この歴史は重い。

しかし、正統を意識しなければロシア軍の蛮行やカルト宗教、反ワクチン集団に対し有力な批判はできない。

筆者は正統を議論するうえで言論人の役割は極めて大きいと考える。政治家・官僚といった権力者ではどうしても「正統とは何か」ではなく「正統を守る」になりがちであり、そこから規制立法の話になる。また、一般市民は日々の生活に忙しく息苦しさを伴う議論は難しい。

だから言論人である。では、現下、言論人は正統の議論をしているだろうか。やはり寂しい水準とはいえないか。稀に見る国際危機の中、我々は言論人がその役割を果たしているのか注視すべきだろう。