言葉を慎む

北尾 吉孝

私は嘗て、「今日の森信三(307)」として次のようにツイートしたことがあります――言葉を慎むということは、修養の第一歩であると共に、また実にその終わりといってもよいでしょう。否、言葉を慎むということは、ある意味からは修養の極致といってもよいでしょう。さればこそ古人も「辞(ことば)を修めることによって誠が立つ」といわれたゆえんであります。

森先生によると、「人間のたしなみというものは、言葉を慎むところから始まるもの」とのことです。之は先生に限らず、例えば良寛でも90条以上の「戒語」を残しており、言葉を慎むということを非常に大事にしていたようです。時に、言わなくて良い事柄をぺらぺらと話し続けるような人がいますが、禅などの世界ではそのようなことを厳に慎むということを重視しています。

人間にとって言葉が最大の意思表示の手段になり得るわけですから、我々は不必要な言葉を発さないように熟慮の上で、ものを言わねばなりません。ものを言う時は、自分が思う事柄のみならず相手のこともじっくり考えるようにしたら、自然と言葉は慎むということになって行くものです。私が知る限り、兎に角ぺらぺらと喋る人間に碌なのはいないように思いますし、陰口を叩く人や人の前で第三者を批評・批判する人にも大した人物はいないと思っています。

元々が人生修養の一つの大きな要素に、「慎独:しんどく…内心のけがれを除く」ということがあります。至誠の域は、先ず慎独より手を下すべし。閑居は即ち慎独の場所なり――独りを慎み、即ち睹(み)ず聞かざる所に戒慎することが、己に克つ具体的修練の方法であり、それにより私心を無くし、誠の域に達することが出来るようなります(西郷隆盛著『南洲翁遺訓』)。西郷さんは生涯2度の流刑に処されました。奄美大島への一度目は薩摩藩が俸禄を出していた為、実質島流しとは言い難いかもしれません。しかし、徳之島・沖永良部島への二度目に関しては完全な流罪であり、衰弱し切り本当に生きるか死ぬかの状況にまで追い込まれました。

此の流刑は彼が人物を創る上で、大変プラスに作用したという側面があるようです。彼は島流しの度、人間学の書を持参し不屈の精神を持って学び続け、不遇の境涯の中で独りを慎み、自らを鍛え抜き大変な人物となったのです。西郷さんの如く自分を厳しく律し慎独の中に一人静かに戒心することがなければ、大人物になれないのかもしれません。明の陽明学の大家である李二曲(りじきょく)も「黙養:もくよう」、黙して養うということを盛んに言っていたようですが、一人静かに瞑想に耽るとか何も考えず座禅するというのは、英気を養う上でも極めて重要であると思います。

「誠は天の道なり。之を誠にするは、人の道なり」と『中庸』で説かれています。森先生の次の言葉で本投稿の締めと致します――人間の修養の眼目は、これを内面からいえば、「心を浄める」ということであり、これを現われた処から申せば、まず言葉を慎むということが、その中心を為すといってもよいでしょう。心を浄めるとは、即ち誠ということでしょうが、しかも言葉を慎むということは、実はそのままこの誠に到る道なのであります。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2022年5月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。